映画理論をどう教えるか
映画研究は、大きく分けると映画史と映画理論に分かれる。映画史はその名の通りだが、映画理論というと一般にはわかりにくいかもしれない。一言で言うと、「映画とは何か」について考えることで、映画の始まりから現在まで多くの著作が残されている。
8年前に私が大学に来た時に、3、4年生向けに「映画理論原典購読」という授業があった。映画理論の代表的な文章を英語で読むものだが、1年間担当してこれは難しいと思った。
最初は翻訳の出ていないデヴィッド・ボードウェルのテキストを選んで、それを学生に割り振って毎週訳してきてもらい、解説した。ところが学生の多くは正しい訳ができないので、英語の授業のようになる。そもそも日本語でも難しい内容なので、無理だと思った。
次に日本映画についてであればあればわかりやすいかと思って、ノエル・バーチの日本映画論を訳させた。これもやはり難しい。そこでもっと優しいドナルド・リチーを使ってみたがこれでも大変。
後期には『映画理論集成』などにまとめられた翻訳を使って授業を始めたが、当たった学生以外は文章を読んでこないし、授業中も居眠りが目立つ。結局、2年目からは映画史や映画ビジネスの授業に振り替えてしまった。
そんな苦い経験があるが、最近、映像学会の映像教育研究会で「映画理論の教育法」をテーマにした発表があったので、慶応の日吉に出かけてみた。発表したのは4人で、私と同世代が1人でほかの3人は30代半ばから40代前半。
みんな苦労して理論を教えているのがわかって、なかなかおもしろかった。4月から専任になる若い研究者のSさんは、「パッションとしての映画理論」と題して発表した。映画理論が、それぞれの著者が映画とは何かを考えた情熱の結果として生まれたものだということがわかるように教えているという。
驚いたのは同世代のSさんの話。3年生の授業では、映画理論の翻訳を事前に渡し、それを1500字ほどにまとめて自分の考えを書く課題を2回に1回の割合で出す。つまり事前に文章を渡してもまず読んでこないので、課題にして無理に読ませる。
さらに授業の始めに、理解したかを見る〇×式のテストまでするという。そうすると途中で出てこなくなる学生もいるが、翌年の再履修でだいたい単位を取るらしい。ここまですれば確かに身につくが、そこまでしないといけないのか。
帰り道、それでも来年度からはもっと映画理論に触れようと思った。
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