« 今頃読む『ねじまき鳥クロニクル』 | トップページ | 『パトリオット・デイ』に考える »

2017年4月21日 (金)

永田雅一にハマる:その(4)

大映は1971年、日活がロマンポルノを始めた年に倒産する。1970年は東映以外は各社が十億を超す赤字になり、東宝は製作部門を子会社化した。大映は71年の3月に本社ビルを売却し、11月に業務停止、12月に破産宣告。

1948年に大映に入り、永田の下で京都撮影所長や常務取締役を務めた鈴木晰也は1990年に『ラッパと呼ばれた男 映画プロデューサー永田雅一』という本を書いている。「キネマ旬報」に1988年から翌年にかけて連載されたものだが、永田が亡くなったのが1985年なので、生前には言えなかったことを一挙に書いたのだろう。

だからと言って暴露本ではない。むしろ永田への愛と尊敬に満ちている。第五章は「頭と腕と顔を失った永田の不幸」と題されているが、その章に以下の文章がある。

「プロデューサー永田の不運は、いろいろと啓蒙された菊池寛(六十一歳)を四十二歳で失い、盟友として信頼し期待した溝口健二(五十八歳)を五十歳で失い、将来を嘱望した市川雷蔵(三十七歳)を六十三歳で失ったことであろう。彼は頭(菊池)、腕(溝口)、顔(雷蔵)を、つぎつぎに失っていったのである」

確かに、菊池はともかく、溝口ととりわけ雷蔵がもう少し長生きしていたら、大映は倒産を免れていたかもしれない。この本によれば、溝口の大映時代の映画はすべて黒字だった。永田と溝口の関係は、この本のあちこちに書かれている。

「五年後の三十六年、七〇ミリ「釈迦」が製作に入った時、永田はだれ言うともなく、「溝口がいたらなあー」と漏らしたことがある。彼にとって人生の痛恨事は、溝口に初の七〇ミリのメガホンをとらすことができなかったことであろう」

著者の鈴木が偶然に羽田で大阪行きの飛行機の待合室で溝口と一緒になった時の話は以下の通り。

「溝口は「ついて来たまえ」といって後方から行列を追い抜き、一番先頭で機内に入り翼の真横の窓際に席をとって、「ここへ座り給え」と横に座らせる。私は彼の強引とも思える行動が不審でならなかった。
しばらくして溝口は小声で、「この席がいいんだよ。もしも不時着すれば、機翼の横のこの席がもっとも安全なんだ。永田がそう言っていました」と含羞むようにいったが、私は二人の友情を顧みるときいつもこのことを思い出す」

当時の飛行機は座席指定がなかったことにも驚くが、この溝口の行動は、何とも微笑ましい。


|

« 今頃読む『ねじまき鳥クロニクル』 | トップページ | 『パトリオット・デイ』に考える »

映画」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/537538/65135694

この記事へのトラックバック一覧です: 永田雅一にハマる:その(4):

« 今頃読む『ねじまき鳥クロニクル』 | トップページ | 『パトリオット・デイ』に考える »