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2017年4月 3日 (月)

永田雅一にハマる:その(2)

永田雅一の戦後の最大の功績は黒澤明の『羅生門』(1950)を製作し、翌年のベネチア映画祭で金獅子賞を取って日本映画海外進出のきっかけを作ったことだが、その前にいくつか書くことがある。

大映は戦後復活するが、戦時中に援助を受けた松竹に電気館ほか3館は譲り、「残るあと三十の直営館はすべて日活に委譲して製作オンリーの体制を確立した。その思想はいまでも残っている」

「大映は、常に背水の陣を布いて、プロデュース・オンリーにしておいた方がいい。製作オンリーにしておけば、大衆に受けるよい映画を作らなければ、会社はつぶれること必定だ」

もちろんこの方針だから1971年に倒産するわけだし、東宝が1950年代から小林一三の「百館主義」で一等地に映画館を作ったのとは逆の方向だけれど、これは戦後すぐに独占禁止法で製作と興行を切り離したアメリカ式でもある。最近だと日活がこの考えだが、なかなか興味深い。

菊池寛が自ら社長を退任して、永田は社長に就くが、1948年1月7日に公職追放を受ける。当時の追放の基準は、盧溝橋事件(1937年7月)から真珠湾攻撃(1941年12月)に常務以上か戦争映画を作ったというものだが、永田は当てはまらない。

そこでマッカーサー元帥宛に抗議書を作り、親しい人に届けさせると3月21日に解除になった。それからマッカーサーと親しくなったという。

永田が1949年8月に映画関係者として戦後初めて渡米したのは、そのようなコネクションがあったからだ。そのほかにも「ドッジ・ライン」のジョセフ・ドッジと日本で既に親しかったり、アメリカで全米映画連盟会長で有力政治家のジョンストンと会っていたり。

永田は51年6月に再渡米し、53年1~2月にも欧米を視察する。54年4月、55年3月にも訪米。これはいくらなんでも多い。読売の正力松太郎と同じで、CIAから資金援助が出ていたのではないかと思いたくなる。51年9月ベネチアの『羅生門』金獅子賞、54年4月カンヌの『地獄門』グランプリ、55年3月の『地獄門』アカデミー賞二冠は、ひょっとして仕組まれていたのでは。

53年に中国抜きで台湾を入れて東南アジア映画製作者連盟を結成して会長になり、翌年から東南アジア映画祭を持ち回りで開催するが、これはまさに反共の砦ではないか。少なくとも永田の本からは、アメリカとの闇の関係の明確な証拠は見いだせないが、その匂いは濃厚。

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