なぜブログを書くのか:その(1)
なぜ私はこのブログを書くのか。もう8年と少し書いているので、始めた時の明確な理由はよく覚えていない。今考えると、新聞記者を急に辞めて何か書きたい気分が収まらなかったからだろう。見た映画や展覧会、読んだ本の備忘録という意味もあった。
なぜ続けているのかは、自分でもわからない。2009年に大学に移ってから始め、半年くらいたって毎日になった。もうほとんど仕事に近い。フェイスブックやツイッターはなかなか更新しないのに、どうしてブログだけ続くのか。
先日ネットをなにげなく見ていたら、「オール讀物 」の酒井順子さんの連載「センス・オブ・シェイムー 恥の感覚 ー」の2017年5月号が「文春オンライン」に載っていてこのことが説明してあって、ハタと膝を打った。題して「中年とSNSーなぜフェイスブックは恥ずかしいのか」
彼女は自分がエッセイを書くことに羞恥心はないと言う。「文章を書くということは、自らの精神がまとっている衣服を脱いで裸を晒し、それどころか内臓やら排泄物まで人様にお見せするような行為です。が、お見せする相手がたとえ「多数」であろうとも「不特定」だと、その感覚はストリッパーのような感じ」
「精神的ストリッパー感覚を抱く私は、同じような理由から、フェイスブックに書き込むことに躊躇します。フェイスブックは、基本的には自分の知り合いとだけつながるSNSです」
私のブログはまさに不特定多数に見せる「精神的ストリッパー」だ。だから知り合いに「ブログ読んでます」と言われると、ものすごく恥ずかしい。まさに裸になったような感じ。
酒井さんは井上ひさしの「すべてのエッセイは自慢である」という言葉を引きながら、プロのエッセイはそれが自慢に見えないように細心の注意を払うという。私が無意識にやっていることを言い当てられた感じ。
「そんな私がフェイスブックを見ると、そこは初めて自由に自慢できる場を得た自慢のアマチュア達が、「他人からどう見られるか」を全く気にせずに、無邪気に欲求を発散させる無法地帯、となっていました」
確かにフェイスブックは恥ずかしい。それはアマチュアの書き手だから。さて、このブログがそうでないかと思ったら、かなり不安になってきた。
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