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2017年6月19日 (月)

『残像』に考えたこと

アンジェイ・ワイダ監督の遺作『残像』を劇場で見た。ワイダは、20代後半で作った『世代』(1954)から最近まで休むことなく映画を作り続けてきた。『カティンの森』(2007)で終わりかと思ったが、その後に何本もあった。『菖蒲』(09)の時、私はパンフに「枯れて澄んだワインを思わせる、巨匠の一筆書き」のようなことを書いた。

彼は昨秋に亡くなったので、これが本当の最後だが、まず思ったのは意外と普通だったということ。『カティンの森』のような衝撃もなかれば、『菖蒲』のようなノスタルジアもない。

1940年代後半から50年代にかけて、ポーランドにもスターリニズムの波が吹き荒れ、芸術では社会主義リアリズム以外の運動は駆逐されてゆく。そんななかで、10年代から前衛芸術運動に参加してきた画家でウッチ造形大学の教授は、あらゆる妥協を拒むために職をなくし、死に追いやられてゆく。

これまでソ連や中国や東欧の映画で幾度となく見てきた物語だ。あるいは戦前の日本やドイツ、赤狩り時代のアメリカなどを描く映画でもよくある話。この映画は、静かに抵抗する教授の日々を淡々と写すのみ。

それでも見終わって、ずしりと心に残るものがあった。一番考えたのは、またかと言われそうだが、ミシェル・ウェルベックの小説『服従』のこと。「君はどっちの側に付くのかはっきりしろ。こちらの側なら大学に復職でき、仕事もいくらでも見つかる」という意味のことを言われて、主人公は「私は私の側だ」と答える。

つまり表向きだけでも体制に逆らわなければ、簡単に生きてゆくことができる。ところが主人公はそれを拒むため、大学を追い出され、配給チケットももらえず、造形作家協会の会員証も剝奪されたため、カフェの壁を飾る仕事さえできない。

『服従』の主人公の大学の教授は、イスラム教徒になることを何となく受け入れる。私自身が日々耐え難いと思うことも「逆らってもしかたがない」と受け入れているように。

もう1つは、題名でもある「残像」のこと。「人間は意識化したものだけを見る」という言葉があるが、その残像の連続が映画ではないか。主人公のストゥシェミンスキは名前しか知らなかったが、この映画では彼の絵画そのものはあえてあまり出てこない。

彼がデザインした展示室のモンドリアンのような赤、青、黄による幾何学模様は、色彩の「運動」そのものを見せる。そして絵画以上に大きな不在は、別れた妻の彫刻家、カタジナ・コブロ。それらの不在を娘のニカや教え子のハンナや詩人のユリアンが埋める。

服従、残像、運動、不在。そんなことを考えた。

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