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2017年6月20日 (火)

小説『流れる』を読む

成瀬巳喜男の映画『流れる』は何度か見ているが、幸田文の原作は読んだことがなかった。ある時気になって読んでみると、「文学」ならではの芸者置屋の匂いのするような文章で、ちょっと驚いた。

映画に比べると、まず主人公である女中の梨花の役割が小説ではずっと大きいことに気づく。映画の場合は大女優たちが華やかに競演をしているので、それぞれの視点から世界が描かれる。小説だと梨花の見た世界がそのまま現実となる。

「このうちに相違ないが、どこからはいっていいか、勝手口がなかった。
往来が狭いし、たえず人通りがあってそのたびに見とがめられているような急いた気がするし、しょうがない、切餅のみかげ石2枚分うちへひっこんっでいる玄関へ達った。すぐそこが部屋らしい。言いあいでもないらしいが、ざわざわきんきん、調子をはったいろんな声が筒抜けてくる」

これが冒頭だが、小説でも映画でも梨花(映画では田中絹代)の最大の役割は「見る」ことにある。映画だともう1人、置屋の主人の娘・勝代(高峰秀子)の冷静な目が光っている。そもそも小説では勝代はそれほど知的な存在ではない。その分、梨花はもっと頭がよさそうだ。

映画も小説もたいしたドラマはない。逃げた芸者の叔父が金をせびりに千葉からやってきて、ひと悶着するくらい。あとは、全体に時代に取り残されてゆく芸者置屋の人々が描かれる。

映画だと中年芸者の染香役の杉村春子が後半に大騒ぎをする場面がある。「女に男はいらないって本当ですか」と半泣きで勝代に絡む。小説では彼女が女主人に帳簿をごまかしたと文句をいうだけで、男女の話はしない。

染香が泣きながら自分の情けない生き方に開き直る映画の場面は、たぶん杉村春子がいるから成り立つ。調べるとわかるのだろうが、女主人の山田五十鈴や高峰秀子、杉村春子などはいわゆるアテ書きのように思えるがどうだろうか。

そして小説ではその家を買い取った料亭の女主人から、梨花が最後に雇われる。映画ではそれを梨花は断るという、決定的な違いがある。映画は誰も幸せにならずに寂しく終わる。

小説のどの部分を省き、ふくらませると映画になるのか、というのは脚本を書くうえで基本なのだろうが、自分はこれまであまりそういう見方をしてこなかった。またこの映画が見たくなった。

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