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2017年6月 7日 (水)

『敗者の想像力』に考える

加藤典洋という評論家の本は、今まで読んだことがなかった。なぜか、自分とは合わない気がしていた。今回彼の新著『敗者の想像力』を読んだのは、本屋で立ち読みしたら冒頭に小津安二郎の話があったから。

彼は、小津の映画には「敗戦的」な感じがあると言う。「彼らは、伏し目がちに酒を飲む。そしてぼんやりと微笑む。/主人公たちは、みんななで肩、そしてうつむき加減、勤め帰りにバーに寄ると、遠くから軍歌めいた威勢よい音楽が聞こえてくる。それを肩をすぼめてやり過ごす」

どの映画のことかわからないが、確かに笠智衆にはその佇まいがある。それは黒澤映画の三船敏郎の姿とは確かに違う。しかし「小津が、欧米にとどまらず、中東、アジアの、それも先鋭的な若い監督たちに、年を追うにつれ、評価を受けるようになってきたことの背景には、この「敗れること」の経験の深さということ、そしてまた、広まり、ということがある」と書かれると、そうかなとも思う。

小津が最近世界的に人気なのは、時代を超えるスタイリッシュで繊細な演出によるものだろう。「敗戦的な」という感覚も繊細さの一つでしかないと思うが。

それでもこの本がおもしろいのは以下の観点だ。「日本の戦後の文学に、七年足らずの占領期の影は極めて薄い。それは占領の現実が、間接支配で、しかも比較的に寛容なものだったからだけとは言えないのではないか。その後、日本ではいまにいたるまで、占領期の日本を描いた作品は多くない」「まだ「占領が続いているからだ」というなら、そうであればこそ、占領期の日本は描かれるべきだという理屈もなり立つはずである」

今も占領期が続くというのは、もちろん白井聡の『永続敗戦論』につながる。確かに映画でも占領期を描いた作品は少ない。あるいは占領期について触れない発想が、今もアメリカに支配されている状態に「服従する」国民を生んでいるのかもしれない。

この本では数少ない占領期に触れた小説として、「第三の新人」や大江健三郎や目取真俊を挙げる。映画『ゴジラ』(1954)にも触れている。

「ゴジラが、戦後の日本人にとって、第二次世界大戦で死んだ兵士たち―戦争の使者たち―の客観的相関物、つまりその体現物として、むろん無意識に受け止められていることを示唆しているのではないか」「その証拠に、東京に上陸し、復興なった夜の都市を蹂躙するゴジラの咆哮は、「自分がそのために死んだ国は、どこに行ったのだ」、「祖国はどこに行った?」と嘆いているようにも聞こえる」

この発想はおもしろい。本全体としては思いつきに近いエッセーだけど、「敗者」というコンセプトは私の心に突き刺さった。

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