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2017年6月29日 (木)

ヌーヴェル・ヴァーグの功罪:その(2)

ジャン・ドラノワ監督の『田園交響楽』(1946)をDVDで見た。これも前回に書いた『肉体の悪魔』同様に、フランソワ・トリュフォーが「フランス映画のある種の傾向」(54)で名指しで非難した。この映画は46年の第一回カンヌ国際映画祭で最高賞のグランプリを取っている。

グランプリだけでなく主演のミシェル・モルガンは女優賞、ジョルジュ・オーリックは作曲賞も取っている。だからトリュフォーとしては、けなしがいがあると思ったのだろうか。

今見ると、あまりの大時代がかった設定と演出にいささか笑いたくもなるが、それも含めて十分に楽しめる。『肉体の悪魔』は、ジェラール・フィリップの溌溂とした演技や回想形式がある種のリアリティを与えているが、こちらはそんなリアリズムはどこにもない。

まず設定がすごい。ピエール・ブランシャール演じる牧師は、老婆の死を看取りに行って、言葉の話せない少女に会う。あまりの貧しい生活ぶりに引き取ることを決心するが、彼女は10年ほどたつと大変な美人に。次第にその娘を愛するようになるが、それは青年になった自分の息子も同じだった。娘は治療を受けて目が見えるようになり、牧師と息子の間で苦しんで自殺する。

最初は猿のような生活をしていた娘が、ある時振り返るとミシェル・モルガン演じる「魔性の女」のような表情を見せるのだから、ありえない。息子が数年ぶりにその姿を見るのは遠くからで、次第に近づいてその美貌に驚く。そして一緒にワルツを踊ったり、オルガンを教えたり。

彼女が手術を終えて目が見えるようになり、息子が病室に入る時も、遠くからカメラは女に近づいてゆく。そして二人はいきなり濃厚なキスを始める。

牧師の嫉妬深い妻や息子の許嫁は、美女への憎しみを高めてゆく。牧師はどんどん妻を嫌いになり、夫婦仲は絶望的に。最後に美女の死体が川から上がった時も、髪は乱れているが妖艶な表情で大きな目を開いた女をアップで見せる。牧師は「私の女だ」と叫び、女を抱えて歩き出す。

アンドレ・ジッドの原作だが、脚本は監督のドラノワとオーランシュ、台詞がオーランシュとボストで、トリューフォーがこき下ろしたコンビ。確かに牧師の話にしては俗っぽいシナリオだが、それ以上にとても牧師には見えないピエール・ブランシャールと不幸な孤児には見えないミシェル・モルガンの配役がすごい。

観客はたぶん当時もありえないと思いながら楽しんでいたのではないか。日本での公開は50年で「キネ旬」12位。その年は1位『自転車泥棒』4位『無防備都市』7位『靴みがき』とネオレアリズモが全盛だった。たぶん『田園交響楽』の内容は、当時の日本人には非道徳的過ぎたのかもしれない。

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