ヌーヴェル・ヴァーグの功罪:その(1)
大学で映画史を教えて8年を超すが、最近「ヌーヴェル・ヴァーグの功罪」ということをよく考えるようになった。トリュフォーやゴダールなど、ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちはよく知られている通り、最初は評論家だった。彼らは将来自分たちが映画を撮ると考えて、かなり大胆な批評をした。
例えばこれまで評価の高かったフランスの監督や脚本家をけなしたり、評価の低かったアメリカ映画の監督を持ち上げた。ヒッチコックやホークスや溝口健二のように、彼らが高く評価したことで世界的に認知されたのはすばらしいけれど、問題はけなされた方にある。
彼らが貶めるのはもっぱらフランスの「巨匠たち」だ。一番有名なのはフランソワ・トリュフォーの「フランス映画のある種の傾向」という『カイエ・デュ・シネマ』誌の1954年1月号に発表された文章。日本語でも1989年の雑誌『ユリイカ』の「ヌーヴェル・ヴァーグ30年」という特集で、山田宏一さんの訳で読むことができる。
トリュフォーは第二次大戦中から戦後にかけてのフランス映画を「心理的リアリズム」として非難する。代表的な監督が、クロード・オータン=ララやジャン・ドラノワ、ルネ・クレマン、イヴ・アレグロなど。そしてそれを支えるのが、ジャン・オーランシュとピエール・ボストを代表とする脚本家たち。
その文章で場面を挙げて非難されている『肉体の悪魔』(1947)をDVDで見た。まさにオータン=ララ監督、オーランシュとボストの共同脚本である。日本ではジェラール・フィリップの主演ということもあり、彼の特集でかなり最近まで劇場で上映されていた。実際に見てみると、これがかなりおもしろい。
何よりも年上の女性を愛する17歳の高校生フランソワ役のジェラール・フィリップがいい。当時25歳で17歳とはとても見えないが、若々しい仕草で情熱的に生きる姿がいい。年上の女性マルトを演じるミシュリーヌ・プレスリーも、最初は乗り気でないのに途中から男よりも真剣になる年上女の感じがよく出ている。
ラディゲの原作で、舞台は第一次世界大戦中。旦那は戦争に行っているのに、妻は若者と不倫。若者の父を始めとしてまわりが恋愛は仕方がないと責めないのがフランス風だが、最終的にはマルトはフランソワの子供を身ごもって悲劇が訪れる。
トリュフォーが嫌いなのは、このいかにも大時代がかった悲劇調なのだろうか。彼は書く。「わがフランス映画の主流の実体は、相も変わらず暗いムードと社会の掟に立ち向かって挫折する純粋な人間たちの孤独と疎外、そして大胆に見えて安易なマンネリズムが適量に調合された伝統的な映画なのである」
すべてがセットで撮られており、登場人物は恵まれた環境にある。だから「悲劇」にリアルさはない。人生の一コマとして、過ぎ去った過去として美しく描かれている。その余裕がダメだったのか。トリュフォーにとって「古い映画」だったことはわかるけれど。
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