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2017年6月10日 (土)

『『新しき土』の真実』に驚く:その(1)

瀬川裕司さんは、かつて新聞社時代に「ドイツ映画祭」などでお世話になったが、新著『『新しき土』の真実』が抜群におもしろかった。『新しき土』(1937)は、ドイツと日本による初めての国際的合作だが、実に奇妙な映画であることは、このブログでも書いた。

この本は、このヘンな映画をめぐる謎を、これまで知られてこなかったドイツ側の資料を中心に解明した画期的な本である。ドイツ側だけではなく、日本の資料も細かく読み込んでいる。

驚いた点は多いが、まず「あっ」と思ったのは、終盤の満州のシーンが茨城で撮影されたという事実。当時の『読売新聞』に「水戸市外石崎村の新興牧場で撮影」と書かれているという。この本にはその時の集合写真(川喜多財団提供)まで載っている。

これは小さなことだが、一番の驚きは、川喜多長政率いる東和商事が1934年からファンクと交渉を始めたということだろう。翌35年には具体的な記事が『キネマ旬報』などに出始める。さらに『東和商事合資会社社史』(1942)の「訪欧日誌」にも出てくる。あるいはドイツの雑誌にも載る。

この段階では、東和商事がドイツのトビスやウーファと折半の出資契約を結んだことがわかるが、まだ日独両政府の関与はない。これまでは、1936年の日独防共協定に乗る形でできたプロパガンダ映画と言われてきたが、それは間違いだった。

またドイツの映画雑誌にあるファンクの談話には「〈土地なき民〉である日本人が〈新しき土〉を求めるという根本的なアイディアはこの時点で固まっていた」「ファンクがヒトラーに媚びる発言をし、ドイツと共通する問題を抱える日本のプロパガンダ映画を撮るという意思表明をしていることも重要だ」「『新しき土』は、ナチ政府の後援が決まった結果として国策映画となったのではなく、ファンクが先に〈有益な国策映画となる〉とぶち上げたことが功を奏して政府の支援が決まったのだ」

ファンクらは1936年2月に来日する。日本では「ファンクらの情報が洪水のようにあふれ、あらゆるマスコミが長期にわたって映画の宣伝をしているような状況となる」

そして筆者が当時の日本の新聞を細かく調査して「わが国では、撮影中にファンクと伊丹が対立し、伊丹の顔を立てるために〈伊丹版〉=〈日英版〉と〈ファンク版〉=〈日独版〉がつくられたという説が根強く語られてきた。だがじっさいには、共同監督を誰にするかという議論すらされていない時期から〈ドイツ語版〉〈英語版〉を製作することはきまっていた」

ファンクは日本で伊丹の『忠次売出す』を見て、伊丹に協力を打診する。「伊丹は当初は脚本だけに関わるつもりだったが、5月になって〈共同監督〉となることを了承したようだ」。そして7月には伊丹が〈英語版〉、ファンクが〈ドイツ語版〉を作ることとなる。

ここまで書いてもまだ映画はできてさえいないので、続きは後日。


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