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2017年7月 1日 (土)

ヌーヴェル・ヴァーグの功罪:その(3)

ヌーヴェル・ヴァーグを語るうえで、一番の問題というか踏み石となるのは、「作家主義」ではないだろうか。これは最初聞いた時はすばらしいと思ったが、だんだん疑問が生じてきた。この主義のポイントは、映画を監督のものとすることと、尊敬する監督の作品なら駄作でも評価すること。

いつか本当にそうなのかきちんと調べたいと思っていたが、「アンドレ・バザン研究」というすばらしい小冊子が出た。今回出た「1」号は、「作家主義再考」がテーマ。出しているのは、山形大学の大久保清朗氏を代表とする「アンドレ・バザン研究会」の10名。

そのかなりを存じ上げているが、野崎歓さん以外は私より1回りから2回り若い。今回は「作家主義」にとって重要と思われる文章で未邦訳のものを、バザンを中心に7本翻訳している。

まず快哉を叫んだのは、アレクサンドル・アストリュックの「カメラ万年筆論」(1948)がわかりやすい日本語に訳されていたこと。これは文章の題名だけでも内容がわかるような気がするので、まさに一人歩きしていた言葉だが、翻訳されていなかった。これまでは飯島正さんの大著『ヌーヴェル・ヴァーグの映画体系』全三巻の解説があるくらいか。

今回堀潤之氏が翻訳した文章の正確な題名は「新しいアヴァンギャルド芸術の誕生」で「カメラ万年筆」はむしろ副題。映画が単なる見世物であった時代を過ぎて、絵画や小説のようにひとつの言語となり、思想を表現するものとなりつつある、という認識が前提。

そこで「デカルトのような人物は16ミリ・カメラとフィルムロールを持って部屋に閉じこもり、『方法序説』をフィルムで書くだろう」という名言が出てくる。

「脚本家はもう存在しなくなる。そのような映画においては、作者(auteur)と監督の区別はもはや意味を持たなくなるからだ。演出とは、もはやシーンを図解したり提示する手段ではなく、正真正銘の書く行為(傍点=エクリチュール)なのだ。作家が万年筆を使って書くように、作者はカメラを使って書く」

これが数年後に「作家主義」を生んだのは間違いない。トリュフォーは「フランス映画のある種の傾向」(54)でオーランシュ=ボストに代表される「脚本家の映画」を非難する。『肉体の悪魔』も『田園交響楽』も「映画監督など彼らのテクストを絵にする職人に過ぎない」

そしてトリュフォーが尊敬するジャン・ルノワール、ロベール・ブレッソン、ジャック・ベッケルなどは「みずから脚本を書き、台詞を書き、そして演出もする作家たちである」

それはいいのだが、どうしてそこから「好きな監督の駄作も評価する」ようになったのか。続きは後日。

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