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2017年8月13日 (日)

『私が棄てた女』の現代性

フィルムセンターの特集「逝ける映画人を偲んで」で、浦山桐郎監督『私が棄てた女』(1969)を見た。遠藤周作の原作は30年以上前に読んだ記憶があるが、この映画版は見ていなかった。見てみると、この時代のインテリ監督らしい図式性は気になったが、相当おもしろかった。

河原崎長一郎演じる努は、自動車部品会社に務め、社長の姪マリ子(浅丘ルリ子)との結婚を控えている。ある時、学生時代に棄てた女ミツと再会する。

地方出身で早大を出て必死で出世を掴もうとする努は、7年前の学生時代は60年安保闘争で戦いながら、福島出身の中卒の女ミツ(小林トシエ)を欲望のはけ口にしていた。努はマリ子と結婚するが、ミツと再会すると思いがこみ上げる。

資本主義社会を駆け上がろうとする男を、地方出身の貧しい女性と対比させ、学生運動の記憶まで入れ込むあたりは相当に図式的だ。現在のミツが学生運動の若者たちと地下鉄ですれ違う場面なども。そのうえ、過去はすべてセピア色(というより黄緑に近い)。冒頭に能面が出てくるが、それがモチーフになり何度も出てくるあたりも観念的だ。

それでもこの映画がおもしろいのは、努の後ろめたさにリアリティがあるからだろう。河原崎長一郎の、自分に嘘をつけない生真面目な表情が強い存在感を持つ。加えて、新人の小林トシエならではのどこまでも無垢さだけが取柄の女も、かつての日本女性の1つの典型に見える。

ミツが老婆のキネと仲良くなり、その縁から養老院に勤め始めるあたりもいい。そこで突然「新相馬を歌います」と歌いだして、いきなり相馬地方の祭のシーンが鮮やかなカラーで出てくる場面(それまでは白黒とセピア)は秀逸だと思う。

片足が不自由な養老院長は「これからは老人が増えて、日本の大きな問題になるでしょう」と言うし、ミツの故郷の福島の相馬は今では大地震や原発事故で知られる名前だし。忽然と現代性が浮かび上がる。

終盤のカラーの場面は、想像の世界だろうか。マリ子は妊娠し(その診察をする医者は遠藤周作)、努はキネの息子(加藤武)と仲良く酒を飲んでいる。彼らの部屋はかつてマリ子の住んでいた代官山ハイツに比べてかなり庶民的だし。

代官山と言えば、マリ子の親戚が集まる葉山、ミツが住む五反田、若いミツが友人とスターの家を見に行く成城学園など、地名が決定的な意味を持つ映画だった。テレビで流れる青江三奈の「伊勢佐木町ブルース」や文明堂カステラのCMなども懐かしかった。

この映画はキネマ旬報2位だが、それはたぶん1969年という時代がこうした「資本主義への懐疑」を持つ映画を支持したのだと思う。

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