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2017年8月25日 (金)

ヌーヴェル・ヴァーグの功罪:その(7)

前にもここで書いたが、ヌーヴェル・ヴァーグと伴走した映画評論家ジャン・ドゥーシェのインタビューが『週刊読書人』でえんえんと連載されている。去年パリで出会った20代半ばの久保宏樹さんによるもので、最新の8月25日号で21回にもなる。

ここでちょと驚いたのは、19回の号でドゥーシェ氏が「ヴァルダ、マルケル、レネ、このような作家たちはヌーヴェルヴァーグとは関係がありません」と述べていることだ。通常の映画史では彼らを「左岸派」とし、ゴダールやトリュフォーなどの『カイエ・デュ・シネマ』誌に集った者たちを「右岸派」と呼ぶ。

これは映画史家のジョルジュ・サドゥールによる分類というが、便利なのでそのまま広がった。「彼らはすべて、ドキュメンタリーや短編映画を作ることから出てきた作家です。つまりシステムの中にいました。一方で私たちはみなシステムの外にいました。それどころか、システムに反抗する立場にありました」「彼らは皆映画学校の出身です」

確かにアラン・レネは国立映画学校を出て、『ヴァン・ゴッホ』などの注文を受けたドキュメンタリーを撮ることから始めた。アニェス・ヴァルダは国立美術学校で写真を勉強して、国立民衆劇場で写真の仕事を始めている。マルケルはジャーナリストとして働き始め、ユネスコの仕事でドキュメンタリーを始める。

「皆映画学校の出身」というのは厳密には正しくないが、確かにこの3人は注文仕事から映画のキャリアを始めている。それにしても劇場の専属写真家だった26歳のヴァルダが撮った『ポワント・クールト』(1954)は、国立映画センターに届け出なしで撮られたために普通の配給網に乗らなかったが、初めての若者による自主製作映画として大きな衝撃を残した。

レネはおそらく一度も自主製作をしていないが、『夜と霧』(55)と『二十四時間の情事』(59)は映画史に残る傑作となった。マルケルも注文仕事を続けているが、『北京の日曜日』(56)や『シベリアからの手紙』(57)などの奇妙なドキュメンタリーはその後の映画作りに大きな影響を与えている。もちろん写真だけをつなげた『ラ・ジュテ』(62)も。

マルケルはレネを手伝ったり、レネはヴァルダ作品の編集をしたり、彼らはつながっていた。その意味でもヌーヴェル・ヴァーグ的だが、ドゥーシェが言いたかったのは、いわゆる映画狂たちが誰からも習わずに勝手に作った映画こそがヌーヴェル・ヴァーグだということかもしれない。

その意味では、松竹で助監督経験のある大島渚や吉田喜重は違うということになるだろう。ただ時間が経ってみたら、その差は才能の前であまり意味がなくなる。要するに第二次世界大戦が終わって、既存の価値観が一挙に壊れた後に世界中に現れたモダニズム運動なのだから。

それにしても「左岸派」「右岸派」は日本ではずいぶん普及している。ヴァルダは確かにダゲール通りに住んでいたから左岸だし、「カイエ・デュ・シネマ」の編集部は昔も今も右岸にあるけれど。また自分の話をすると、私のホテルはおおむね左岸で去年半年住んだのも左岸。ある時仕事の関係で右岸のホテルに泊まったら、夕食で迎えに来たドゥーシェ氏が「方針を変えたのか?」と驚いていた。

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