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2017年8月12日 (土)

『『新しき土』の真実』に驚く:その(2)

当たり前だがこのブログは1人でやっていて編集者もいないので、シリーズの連載を始めたのに数日後には忘れていることがある。夏休みで時間ができたので少し振り返って、1回だけで終わった続きのフォローをしたい。まずは瀬川裕司著『『新しき土』の真実』の続きから。

この映画の謎の一つは、伊丹版=英語版国際版とファンク版=ドイツ版が存在し、当時の日本ではファンク版の方が圧倒的に評判がいいことである。まず1937年2月4日に伊丹版が公開され、1週間後にはファンク版が封切られる。

『神戸新聞』には、以下の広告が出ているという。「ドイツ版はファンクが故国ドイツで封切披露するためにファンク自身が編集したものである。しかし、完成されたのを見て、あまりに素晴らしい出来なので急遽、『新しき土』の第二週目に、これを封切るのである!」

「つまり広告製作者は、伊丹版を踏み台にしてファンク版の素晴らしさを訴えた」「川喜多らは2週間の上映とされた伊丹版を1週間で差し替えた理由を明らかにしていない」

この本によれば「一見してそっくりに見える両版の映像も、実は小さな点が異なっていて、同一のものはほとんどない」「<富士山>や〈打ち寄せる波〉のような風景映像も含めて、両版に使われた〈同一ショット〉はごくわずかしかない。いや、皆無に近い」。これはこれまで書かれてこなかったことだ。それほど2人の溝は大きかったのだろう。

この本では2つの版の差異が詳細に分析されているが、それは省く。ファンク版が封切られてすぐに新聞ではこちらへの賞賛が相次ぐ。朝日新聞は「いまや国際版の惨めな失敗の大半の責任は少なくとも伊丹監督の編集によることが明瞭となった。国際版の編集者よりもファンク監督の方が幾分かでも日本をより理解しているといえよう」とまで書く。

この本によれば、時間がたつと「ファンク版と伊丹版を比較するという視点は消え、両版ともに愚劣だとする見解が主流になる」。さらに時間がたつと伊丹擁護論が出てくる。例えば沢村勉は「ファンク版から少しでも遠ざかることが、伊丹万作の努力だったのだ」と書く。

この本の結論は2つ。なぜこんな珍品が作られたのか。「『新しい土』というプロジェクトは、日本および日本人が国際的に認められたいという欲望が最大限に膨張した時に誕生したものだった。同作は今日では考えられないほどの期待を集め、まちがいなく全世界から賞賛の声を浴びると信じられた」

なぜこの映画はヒットしたのか。「当時の日本では、映画輸出では〈日本の真意を知ってもらう〉ことが重視され、国内向けにも大陸での行為を美化・正当化する作品が多く作られていたので、人々は『新しき土』のように露骨にメッセージを発する映画に慣れきっており、特に違和感を抱かなかったろうということだ」

「『新しき土』は、さまざまな不自然さや愚かさを含みながらも、同時代の日本人の夢や欲望が凝縮された映画だった」「戦争へとつながる巨大な狂気にのみこまれていった当時の日本のメンタリティを象徴するひとつの現象として、映画『新しき土』を再検討することの意味はここにある」

引用が長くなったが、現代にもこうした「巨大な狂気」が育ちつつある気がする。

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