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2017年10月14日 (土)

美術館の学芸員になりかけた話

井関正昭さんが亡くなられた。ローマの日本文化会館や北海道立近代美術館、東京都庭園美術館の館長をされた方だが、私も昔お世話になった。私が最初の職場である国際交流基金に勤めていた頃、大阪の「具体美術」のローマでの回顧展を担当した。

展覧会は、ローマ国立近代美術館の女性館長と女性学芸員、当時兵庫県立近代美術館の学芸員だった尾崎信一郎さん、それから国際交流基金を定年退職して北海道の美術館にいた井関さんの4人の監修だった。1990年頃のことだ。

井関さんは本来イタリア美術の専門だが、ローマの日本文化会館に長年勤務していたので、イタリアの美術関係者の信頼が厚く、監修を頼まれたのだと思う。

私は担当者として、ローマから来た2人のイタリア人を連れて、尾崎さんの案内で井関さんと共に、まだ元気だった具体の作家たちを訪問した。5人の珍道中だったが、井関さんはいつも優しい笑顔で全体のまとめ役をしてくださった。その後12月にはこの日本人3人と具体の作家10名ほどがローマに行って、1週間展示作業をした。

その翌年の3月にはこの展覧会がドイツにも巡回したが、井関さんは監修のメンバーではなかった。私はそのオープニングの後にロスに行き、サンタモニカ美術館で別の日本の現代作家の展覧会の展示作業をした。

3週間ほどたって4月に帰国すると、私は異動になっていた。美術展を担当する展示課から、地方の国際交流を推進する部署だった。ようやく美術展のおもしろさを感じていた頃だったので、ひどく落胆した。その時に、お世話になった10名ほどの美術関係者に異動の挨拶の手紙を書いた。

すると井関さんから電話があって会うことに。九段のホテル・グランドパレスで「私の勤めている北海道の美術館に学芸員として来ないか」と誘われた。私の心は大きく揺れた。その時は行くつもりだった。1週間時間をもらって、職場の先輩で学芸員出身の矢口國男さん(2004年に亡くなられたが、彼を送る会の弔辞は井関さんだった)に相談した。

矢口さんは「勧めない」と言ったうえで、かつて北海道のその美術館に勤めて大学の教授になったOさんを紹介してくれた。私がOさんに電話をすると、「あなたは美術が専門ではないし、北海道は旭川など支部勤務もあってつらい。今の職場の方がいいと思う」と言われた。

結局、私は井関さんのありがたい申し出を断った。もし受けていたら、今もどこかの美術館に勤めていたのでは。映画との関係は切れていたかもしれない。私は基本的に来た仕事やポストのオファーはすべて受ける。だから2回も転職した。だが、井関さんの話だけは断った。

そんなこともあって訃報を知った時、すぐに朝日に知らせて記事にしてもらった。それを他紙が追いかけた。葬儀には花束が溢れ、大勢が駆け付けた。30年近く前の不義理に対するせめてもの償いのつもりだった。

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