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2017年10月 9日 (月)

山形だよ、全員集合!:その(2)

山形に限ったことではないが、今、国際映画祭で数多くの出品作から何を見るかを考える時、中国映画はまず外せない。今の中国はいろいろな意味で世界の話題だし、国内は激動の時代でその矛盾を描く監督も多いから。

コンペに出た2本の中国映画、1987年生まれのジュー・ションゾー監督の『また一年』と1965年生まれのシャー・チン監督の『孤独な存在』は、時間の経過を描く点で似ている。中国の庶民の生活、とりわけその生活音を執拗に聴かせる店でも共通点がある。

ただそのアプローチは全く逆。『また1年』は、中国の武漢に近い田舎の家にカメラを据える。「1月」「2月」とクレジットが現れて、各シーンが十数分、家の中に置いた固定カメラが家族を捉える。毎回カメラの位置は変わる。変わらないのは、大半で家族が食事をしていること。

4月だったか、カメラには家族の写真しか写らず、そこにテレビ画面が反射する。画面の外では祖父が電話で話している。どうも倒れた祖母のことらしい。父が出てくるのは8月からで、それまでは武漢に出稼ぎに行っていたようだ。近所のおばさんが出てくることもある。中学生の長女は中盤は出てこない。

テレビは写ったり写らなかったりするが、その音はほとんどの場面で聞こえてくる。あるいは家族の食べる音。カメラはテーブルの高さに置かれることが多いので料理自体はあまり写らないが。父も祖父もビールを瓶からそのまま飲む。父は母に「ビールがないと生きていけないの?」と言われながら。

カメラの位置は偶然のように見えて、実は周到に計算されている。小さな部屋から世界のすべてを見せるために。微視的に捉えられた日常から、人間の普遍的な営みが立ち上がる。最後に「また1年」と出て正月の家庭が写る。1年前と同じようで、どこかが違う。

『孤独な存在』は、大半は街の中で行きかう人々にカメラを向けるが、ときおり無人の暗い家の中を映し出す。台詞はほとんどなく、何度か監督の独白のような字幕がはさみこまれる。現代中国社会の喧騒と、監督の絶対的な孤独が対比される。いささかセンチメンタルではあるが、これまた世界のどこにもある現状を見せている。

昨日書いた日本映画2本が激しく政府を糾弾するのに比べて、中国の2本は日常の細部を見せるだけ。もちろん今の中国で正面切っての政府批判は難しいだろうが、この執拗で強烈な内向性は何だろうかと考えた。考えてみたら4本とも普通の庶民を描いているのだが。

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