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2017年11月15日 (水)

『花筐』の世界

大林宣彦監督は、昔からどこか苦手だった。『HOUSE』で見せた「映像マジック」を『転校生』のような商業映画でも時々使う。マジックというより「なんちゃってマジック」といったらいいのか、開き直りのような映像遊びがピンと来なかった。最近はほとんど見ていない。

12月16日公開の『花筐』を見ようと思ったのは、舞台が1941年の唐津と聞いたから。そのうえ原作は檀一雄というから、九州男児の血が騒いだか。

169分の長尺の映画は、何と最初から最後まで「映像マジック」の世界だった。すべてが作り物で時代も場所も通り越した夢物語のよう。余命宣告を受けているという大林監督が、自分のやりたいようにやった感じ。昔ならば拒否反応を起こしただろうが、今は妙に心を動かされる。

唐津の旧制高校には変人が揃っている。主人公の榊山(窪塚俊介)は、叔母・圭子(常盤貴子)のもとで暮らすが、その妹の病気の美那(矢作穂香)に惹かれている。榊山の友人には、肉体派の鵜飼(満島真之介)や虚無的な吉良(長塚圭史)、お調子者の阿蘇(柄本時生)がいる。

さらにあきね(山崎紘菜)や千歳(門脇麦)が加わって、怪しげな魅惑に満ちた日々が続く。とはいっても、性的な要素はゼロで、圭子や美那が裸になっても体の形さえ何かに覆われたよう。彼らは抱き合い、叫び、海に飛び込むが、実際には何も起こらない。

町では唐津おくんちの祭が盛大に開かれ、料理がふるまわれる。あるいは兵隊たちが出征してゆく。しかしすべては原色に彩られた絵巻のようだ。まるで陽炎のように登場人物のまわりを動く。雪や雨や花吹雪や夕日や海の波さえも、書割のようにしか見えない。あちこちで血が飛び出すが、誰も死なない。

1941年12月8日の真珠湾攻撃の日が中心になるが、そんな戦争の気配はない。あくまで自分たちの青春を謳歌するために生きている者たち。

一見、鈴木清順の世界のようだが、そんな大正ロマンではないし、エロチックもない。あるいは黒澤の『夢』のようだが、そちらの方がずっとリアルさがある。

戦前の九州の小さな町に住む、青年たちの文学的世界が最後の最後まで続く。小説『ポールとヴィルジニー』やバッハの無伴奏チェロ組曲、「ノスフェラトゥ」という音楽、能の舞。たぶんこれが大林監督が生涯夢見た世界だったのだろうと思う。3時間近いのに退屈しないのは、その強い思いを随所に感じるから。

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