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2017年11月 2日 (木)

トップが変わってもあまり変わらない東京国際映画祭:その(4)

映画祭も後半になると、今年のコンペの傾向の話が出る。ユーラシア大陸のみで、アメリカもカナダもオーストラリアもない。トップが変わって、矢田部氏は好き放題に選んだのではないか。似た作品が多い。人によって評価に差が出やすい、云々。

確かに朝日新聞デジタルの星取表を見るとわかるが、点数の差が激しい。『グレイン』に至っては、秦早穂子さんと杉野希妃さんと私は4点で、アーロン・ジェローさんと石飛徳樹さんは1点なのだから。

ではその『グレイン』はどんな映画かと言えば、近未来を白黒で描いた渋いSF。そこは見えない電気の「壁」によって、純粋な血を持つ者のみが住むことを許される国。冒頭に子供が入国を拒まれて、一人で壁を越えようとして焼き殺されるシーンが出てくる。

主人公のエロン教授は、遺伝子不全の調査をしている。彼はその原因を解明するためにかつて同じ会社で働いていた研究者のセミル・アクマンの存在を知り、彼を探す旅に出る。その男は「荒野」と「死の地」の間に住んでいて、エロン教授は助手と「壁」をくぐり、その境界地へゆく。

その教授の姿はタルコフスキーの『ストーカー』のようだ。彼が住む国の未来的な建物も、荒れ果てた境界地も、よくこんな場所を探してきたと思うほど審美的な風景が続く。人種、遺伝子、難民、といった今日的な問題を、不可思議なSFに押し込めた力作だと思った。

監督はトルコ出身で『蜂蜜』(2013)を撮ったセミフ・カプランオールだが、今回は「辺境」の映画からSFという蓑を借りて、現代世界の問題に迫っている。最後は何だかわからなくなるけど。

東京国際映画祭のコンペには毎年こうした審美的で抽象的な映画が数本ある。今年はほかに『泉の少女ナーメ』もそれにあたる。先祖代々「癒しの水」を守る家の娘の話だが、まず山の中のその土地が息をのむように美しい。そして娘はまるで神の子のような神秘的な顔と体つき。

3人の兄たちは厳格な父を嫌って家を去り、娘が水を使う治療を続けているが、娘にも転機が訪れるというもの。昔はこういう映画が好きだったが、最近は飽きてきたかもしれない。監督はジョージア(グルジア)のザザ・ハルシだが、いかにもジョルジア映画らしい。

イランのアスガー・ユセフネジェッド監督『ザ・ホーム―父が死んだ』も「辺境」の映画だろう。舞台は都会で最近のイラン映画に多い家族の諍いをテーマにしているが、あくまでイスラム社会の特殊性を見せる。父が亡くなって娘は泣き叫ぶが、そこから次第にいくつもの真実が出てくる。最後に爆弾級の告白が出てくるが、いさかか詰め込み過ぎで見ていて疲れた。

東京国際映画祭もあと一日。今年は去年より疲れた気がする。

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