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2017年11月 3日 (金)

トップが変わってもあまり変わらない東京国際映画祭:その(5)

最近は再び中国映画が勢いづいている気がするが、コンペの『迫り来る嵐』はすばらしかった。1997年のある小さな都市の国営工場を舞台にしたもので、中国の急速な近代化を丸ごと捉えようという野心的な試みだ。これがドン・ユエという監督の第一回長編とは驚く。

主人公グオウェイは巨大な工場の保安課に勤めているが、ある連続殺人事件に異様に興味を持って独自に社内の捜査を始める。なぜそれほど懸命になるのか最後までわからないが、彼の行動を追っていると中国の資本主義のひずみの全体像が浮かび上がってくる。

街は黒々として、やたらに雨が多い。グオウェイは犯人らしき人物を探し、狙われそうな女性に近づいて一緒に住み始める。何も起こらないうちにグオウェイ自身がコトを起こしてしまう。冒頭とラストの2008年のシーンが抜群に効いている。ジャ・ジャンクーのセンスに近いが、もっと思索的だ。

よくわからないが魅力一杯という点では、『アケラット―ロヒンギャの祈り』もそうだ。シンガポール生まれのエドムンド・ヨウ監督は前作の長編第一作『破裂するドリアンの河の記憶』が傑作だったが、今回はそれには及ばない。しかし、マレーシアとタイの国境の小さな町で暮らす若い女性フイリンの魂の彷徨には深く心を動かされた。

フイリンは金を稼ぐための人身売買に関わっているが、そこでロヒンギャの人々への残虐行為を目にして正義に目覚める。そして病院スタッフのウェイに出会い、2人は犯罪組織から逃げ出す。カメラはその過程を、まるでフイリンの心の内側を見せるように追いかける。

『迫り来る嵐』は時代そのものを描く骨太な映画だが、こちらは曖昧な場所にいる若い娘のパーソナルな感情をもとに、その奥にある現代を描くミニマルな作品だ。どちらも中国圏ではあるが。

その2本に比べたら、コンペのフランス映画2本は影が薄い。ギヨーム・ガリエンヌ監督『マリリンヌ』は田舎出で女優志望の女性を描く。かなり主観的に自由に描いているが、同じ監督の『不機嫌なママにメルシー!』のように俳優出身の監督本人が演じていればそれもうまく収まった。今度はただのヒステリックでエゴイストの娘の気まぐれにしか見えない。

サミュエル・ジュイの第一回長編『スパーリング・パートナー』は、ごく普通の娯楽作。マチュー・カソヴィッツ演じる45歳のボクサーの生き方を描いたもので、敗者の美学は楽しめる。娘の存在が救いだが、カソヴィッツは精彩を欠いている。こんな平凡な映画を国際映画祭で見せるとはどうかしている。

今日の夕方には各賞が発表されるが、審査員の顔ぶれを見ると、例によってとんでもない作品に賞が行きそうな気がする。

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