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2017年11月 1日 (水)

『スター女優の文化社会学』を読む

北村匡平という私よりも2回り若い著者の『スター女優の文化社会学 戦後日本が欲望した聖女と魔女』を読んだ。400ページを超す大著だが、東京国際映画祭に期間中に持ち歩いて余った時間にあちこちで読んでいた。

ガチガチの映画好きでどうしても「作家主義」から自由になれない古臭い私には、実に刺激的な本だった。最大のポイントは、原節子や京マチ子を中心に監督論や女優論ではなくあくまで作り出されるスターイメージの変容を語っていること。だから評論雑誌以上にファン雑誌を読み解き、宣伝する側のプレスシートを重視する。

筆者が序章に書くように「本書の狙いは、戦前から人気を博し占領期に絶頂期を迎えた原節子と、戦後派ナンバーワンのスターとして鮮烈なデビューを果たした肉体派女優・京マチ子のペルソナを通して、日本人の「戦後」を解き明かすことである」

京マチ子の作品をあまり見ていないせいもあるが、私にとっては原節子の分析がおもしろかった。特に小津の『晩春』に出た1949年から原のイメージが一変するという指摘は興味深い。

「敗戦から1949年頃までの原節子の支配的なイメージは、民主主義の代弁者としてスクリーンを躍動する現在形の原節子だったが、この年から彼女のイメージに異なる力学が働くようになる。すなわち喪われた過去の女性像をノスタルジックにスクリーンに仮構し、「静止状態のまま観念的な威厳を保ち続ける美」(四方田犬彦からの引用)を小津映画で表象してゆくのである」

「小津は、原節子がそれまで構築してきた民主主義の伝道師というスターイメージのなかでも、その潔癖で知的なイメージは温存しつつ、父の説得で縁談を承諾し、日本的な記号に屈してゆく姿を描くことで、民主主義の指導者としてのイメージをぬぐい去り、伝統的な美的意識を彼女の身体に呼び戻した」

確かに黒沢の『わが青春に悔なし』や吉村の『安城家の舞踏会』や木下の『お嬢さん乾杯』の情熱や溌溂さに比べて、『晩春』の原はあくまで静的だ。お茶やお能や京都の寺まで出てくるから、その伝統的イメージは明らか。これまでこの違いがきちんと論じられなかったのが不思議なくらい。

この本では京マチ子についても、肉体派女優から『羅生門』を機に国際派女優に転じてゆく過程をつぶさに分析している。終章ではこの2人を「聖女と魔女」としながらも、共通点を見出す。「スキャンダルのないスター、異性とのゴシップのない女優、潔癖で純粋無垢な人、未婚であること」「こうして彼女たちは、世代を超えて、ジェンダーを超えて、戦後日本の欲望の対象となった」

これまでの映画研究と違って明らかに社会学的なアプローチだが、映画史も今後はこうした新しい見方が必要なのだと思った。これは博士論文かと思ったら修士論文を書き直したものという。優秀な若手映画研究者がどんどん増えている。

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