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2017年12月 4日 (月)

『映画の胎動』を読む

最近ここによく書くように若手の映画研究者の博士論文をもとにした分厚い本が続々と出ているが、1985年生まれの小川佐和子氏の『映画の胎動 1910年代の比較映画史』もその1つ。実は昨年春に出た時に買っていたが、いつの間にかどこかにまぎれて読んでいなかった。

読まなかったのは、たぶん自分からは遠い内容だから。1910年代の映画が対象なので、ほとんど私も見ていない。著者は「海外の映画祭の常連となって、一年に数百タイトルの無声映画を観てはノートを積み重ねるようになった」と「あとがき」に書いている。つまりイタリアのポルデノーネ無声映画祭やボローニャ復元映画祭などに何年も通った結果だろう。

実は私もポルデノーネもボローニャも一度行ったことはあるが、そのマニアックな熱気に圧倒された記憶がある。この本からはその時に感じた「熱気」が伝わってくるが、いかんせん見ていないからロシアのエフゲニー・パウエルもフランスのアルベール・カペラニも飛ばし読みするしかない。

唯一、イタリアの無声映画は2001年の「イタリア映画大回顧」で上映したので少しは見ている。『されどわが愛は死なず』(1913)のリダ・ボレッリ、『アッスンタ・スピーナ』(15)のフランチェスカ・ベルティーニ、『王家の虎』(16)のピーナ・メリケッリ、そしてとりわけ『灰』(16)のエレノーラ・ドゥーゼの過剰な演技はよく覚えている。

彼女たちは「ディーヴァ」と呼ばれたが、この本では「ディーヴァ映画に特徴的なのは、女優の演技を提示するロング・テイクである」「それは舞台におけるモノローグというよりも、台詞で伝えられる内容を旋律に乗せて極端に引き延ばし、抑揚をつけて歌うオペラのアリアと同じ機能である」

そうか、ディーヴァ映画はオペラのアリアと考えればいいのかと納得がいく。そのほか学んだ箇所は多いが、日本の無声映画の部分も興味深い。「ヨーロッパ映画は初期の時代から「芸術」としての映画をめざしていたのにたいし、日本映画は大衆芸能の延長線上に発展してきたという点で特異である」と述べている。

「歌舞伎や講談、落語、落語、義太夫といった演劇や語り芸、映画の誕生と時期を同じくする新派、流行歌といった新興芸能など、当時のさまざまな芸能への依存と対峙にもがきながら、日本映画は独自のメディアとして自律した地位と立場を確立しようと模索していった」。これも合点がいく話で、現代でも日本では映画はアートではなく大衆芸能だと思えば腑に落ちる。

この筆者が言いたいのは、物語ることを第一義におく「アメリカ映画中心史観」から隠された10年代のヨーロッパ映画は、「視覚的要素に重きが置かれ、画面内演出に力点が置かれていた」ということだろう。そしてそのバリエーションとして日本映画もある。

今後1910年代の映画を見るたびに、この本を紐解きたい。それにしても、若い映画学者はみんな偉いなあ。


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