「多々ある」への違和感
昔、パリで言語学の授業を受けた時、「あらゆる言葉に間違いはありません。誰かが書いたり話したりするすべての言葉は正しいのです。ただし、これまでの言い方に比べると違うと感じることはよくあります」という話を聞いて、なるほどと思った記憶がある。若い女性の先生だった。
言葉は日々変化する。絶えず新しい使い方が出てくる。しかし長く生きていればいるほど、新しい言葉に違和感を感じることは多くなる。もちろん大学にいると、学生の言葉はいつも気になる。とりわけ理論課題で提出された文章はよく直す。「大人の文章としては好まれない」と言いながら。
よくあるのは、「立ち位置」や「目線」といった言葉でたぶんテレビから来たもの。というより、テレビ業界から始まったのではないか。テレビの収録で使われた言葉が広がったように思う。
それから「オマージュする」とか「パロディする」のような、カタカナの名詞に「する」を加えるもの。「オマージュを捧げる」とか「パロディにする」とかに直す。意味がわかればいいのだけれど、やはり止まらない。
最近気がついたのが、「多々ある」「多々見られる」という表現が多いこと。これは別に間違いでもないし、むしろ大人が使う文語的な表現のはず。ところが最近の学生はなぜか使い過ぎる。
「トリュフォーの映画は自伝的要素が多々あるが」「この作品は幻想的シーンが多々見られるが」「冒頭にナレーションが多々ある」
多々あるというのは、相当に多いことを意味するはずだが、学生は「よくある」「見られる」「気になる」くらいで使う。私の感じでは「至らない点も多々あるかとは存じますが」のようにあえて「多さ」を強調する必要がある場合に使う方がいい。普通は「多い」の方がシンプルでいい。
おそらく「多々ある」の多用は、何でもいいから相手に忖度する現代の雰囲気から生まれたのではないか。わずか2000字の課題に2、3回出てくると、おかしいのではないかと思う。なぜか中身のない文章を書く学生がよく使う。
「多々ある」がどこから来たのか辞書を引いたがわからないので、いつか国語学者とか辞書編纂者とかに聞いてみたい。
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