『恥辱』に身につまされる
年を取ると映画でも小説でも身につまされることが多いが、J・M・クッツェーの『恥辱』を読んで自分の近未来かと思った。クッツェーと言えばノーベル賞作家でその前にはブッカー賞も取っているが、まだ読んだことはなかった。
読んでみたのは友人の英文学者が授業で取り上げているとフェイスブックに書いたためで、どんなものかと本屋で文庫を手に取った。すると表紙裏の短い紹介に以下のように書かれていた。
「52歳の大学教授デヴィッド・ラウリーは、2度の離婚を経験後、娼婦や手近な女性で自分の欲望をうまく処理してきた。だが、軽い気持ちから関係を持った女生徒に告発されると、人生は暗転する。……デヴィッドは娘の住む片田舎の農園へ転がりこむが、そこにさえ新たな審判が待ち受けていた」
このデヴィッドは「かつては現代文学の教授だったが、大規模な合理化計画の一環として、古典・現代文学部が閉鎖になったため、いまではコミュニケーション学部とやらの准教授である」。これは最近の日本でもよくあることで、笑ってしまった。
私は表向きは映画学科の教授だが、「理論の先生は不要」となって、「コミュニケーション学部准教授」になるなんて、明日にもありそうなことだ。この小説の主人公は女子学生と数回関係を持つが、彼女は突然大学を辞めてしまう。
彼女のボーイフレンドは研究室に現われて騒ぎ、何より父親が抗議に来たために学内の査問を受ける。そこでも同僚の妥協案を突っぱねて威張った態度を貫き、とうとう免職となる。
そこで娘の住む田園地帯に出かけるが、私はてっきりそこでも大学でのスキャンダルが伝わって苦労するのかと思っていた。ところがそこでは、ならず者3人組が娘の家を襲い、彼の車は盗まれて娘はレイプされる。
そのうえ娘はレイプの事実を警察に言おうとしない。そして田舎の隣人たちとできるだけ仲良くする。書き忘れたが、舞台は南アのケープタウンとその周辺で、娘の隣人のほとんどはアフリカ人だ。白人のデーヴィッドは、すべてが自分の思い通りにならず、最後にはあらゆる誇りを捨ててゆく。
つまりは西洋を中心とした文明の崩壊を大学教授を主人公に描いたもので、その意味ではミシェル・ウェルベックの『服従』に近い。だから日本人の私には本質的にはピンと来ないはずだが、どうも他人事ではない気がした。数年前に行ったケープタウンの薄気味悪い豪華さを思い出したこともあるかもしれない。
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