『観光客の哲学』を読む
私より10歳若い評論家・東浩紀の本は、実は一度もちゃんと読んだことがなかった。最初の『存在論的、郵便的』(1998)から、本屋でめくったり、書評を読んだりはしたが、買ってさえいない。なぜかその気にならなかったのは、彼の風貌や雰囲気によるかもしれない。
去年出た『観光客の哲学』は、絶賛する書評もあったし、何より題名がわかりやすいので買ってみた。しかし読んでみたら、やはり私には難しかった。
出だしはよかった。「他者を大事にしろ」というこの70年来のリベラル知識人の主張は、「まずは自分と自分の国のことを考えたい」という現代人には届かない。彼はここで「他者」の代わりに「観光客」という概念を導入する。
「観光は19世紀に生まれた。そして20世紀に花咲いた。21世紀は観光の時代になるかもしれない。だとすれば観光の意味について哲学的な考察が必要だ」
そして観光はマンガやアニメの「二次創作」に近いとする。「両者に共通するのは無責任さである」「観光客が観光地の住民から嫌われるように、二次創作もまた原作者や原作の愛読者から嫌われることがある」。こうなるとわかったようなわからないような。
それをさらに哲学史から説明する。カントからヘーゲルまで国民国家を人間―人格としてとらえた。その後に現われたシュミット、コジェーヴ、アーレントはそれを打ち破るグローバリズムを「人間ではないものの到来」と考えた。ネグリとハートはそれを新たな「帝国」ととらえ、それを壊すためには「もう一つのグローバル化」が必要と考え、「マルチチュード」と名付けた。
しかしそれは「あまりにもあいまいで、とくに神秘主義的である。それはロマン主義的な自己満足を呼び寄せる。観光客の哲学はこの弱点を回避しなければならない」「ネグリたちはマルチチュードの連帯を夢見た。ぼくは観光客の誤配を夢見る。マルチチュードがデモに行くとすれば、観光客は物見遊山に出かける」
その後、「観光客の誤配」が数学的なモデルで解説される。ここは哲学以上にわからないので飛ばすと、第2部で「観光客が拠りどころにすべき新しいアイデンティティ」として「家族」の概念が出てくる。私は「家族旅行かよ」と笑ってしまった。
それから先もよくわからない。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』とその続編の話がえんえんと出てくる。それも比喩でしかない。そして「2017年のいま、他者への寛容を支える哲学の原理は家族的類似性くらいしか残っていない。あるいは「誤配」くらいしか残っていない」
結局のところ、「マルチチュード」に変えて「観光」と「家族」という言葉を差し出しただけなのではないか。哲学とはそういうものなのか。
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