『祈りの旅』に泣く
新聞社に勤めていた頃、「社会部」というのは鬼門だった。とにかくおっかない記者が多かった。政治部や経済部ならばある程度相手に合わせる社交性があったが、「社会部」は問答無用。彼らには「文化事業部」などは存在しないに等しかった。
そんな私が「朝日新聞社会部編」の『きょうも傍聴席にいます』に涙した。そしてまたもや著者が「朝日新聞社会部」という本を買って泣いてしまった。『祈りの旅 天皇皇后、被災地への思い』のことだ。これは東北大震災後の連載「てんでんこ」でかなり読んでいた。主に書いていたのが、旧知の北野編集委員だったこともある。
連載でも泣いたが、たまに時間がなくて読めないこともあるし、何より続けて読めないので、パラパラな印象になる。今回まとめて読むと、これは強烈だった。
例えば、福島からの避難者を東御苑に招いた時の話。皇宮警察音楽隊が「美空ひばりの「川の流れのように」を奏でたところ、泣き出す参加者が続出したため、次の会からはこの曲ははずした」というくだりを読むだけで、私は泣く被災者を想像して泣いてしまう。
天皇皇后の心づかいがわかる文章も多い。2014年2月に両陛下が台風被害の伊豆大島を訪れた時、皇后は宮城県南三陸町製のバッグ「アストロテック」を手にしていた。同じ7月に南三陸町を訪れた時も持参して「色合いが素晴らしい」と言ったという。
「両陛下が被災地訪問で手にする透明のビニール傘にも、お二人の思いが反映されている。もともとは黒色の傘を使っていたが、雨のなかで待ち受けた人たちに自分たちの姿がよく見えるように、ビニール傘にした」。記者はその傘を作る会社が台東区の「ホワイトローズ」だと突き止め、今も注文が入っていることを書く。
2004年の中越地震で山古志村を訪れた時は、地震前に撮影した村落の写真を使ったカレンダーができたので、村長の長島は両陛下に渡す。村長が後に園遊会に招かれると、「皇后さまから「山古志のカレンダー、毎日見ていますよ」と言われ、長島は「天にも昇る気持ちになりました」という」
2013年に水俣を訪れた時に胎児性水俣病の人々に会ったのは、最近亡くなった石牟礼道子の勧めによるという。胎児性患者の施設長は極秘に2人の患者を連れてゆく。県職員からは「夢を見ていたと思ってくださいね」と口止めされたが、両陛下がそれをあえてほかの患者に話したために、「おしのび」がニュースになったという。
記者はそれを石牟礼など関係者への綿密な取材で解き明かす。皇太子時代、1959年の伊勢湾台風の視察で会った小学生を探して、その後愛知県の防災局長になった男性からコメントを取るなど、とにかく時間をかけて取材している。
この本にはほかにも読み応え満載だが、私が心を動かされるのは、天皇そのものよりも、その訪問を喜ぶ人々の姿とそれを理解して訪問を続ける皇室の相互の心の交流なのだと思い至った。皇室は昔から好きではなかったのに。
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