『馬を放つ』の神話性
3月17日公開のキルギス映画『馬を放つ』を見た。監督のアクタン・アリム・クバトは『明りを灯す人』がなかなか味わい深い映画だったので、見たいと思った。東京フィルメックスで見た学生が絶賛していたし。
今回も監督が主演。『明りを灯す人』にはヘタウマのようなおかしさが全体に広がっていたが、『馬を放つ』はずっと静かな映画で、心の奥底からじわりと訴えかけてくる。
「ケンタウルス」と呼ばれる主人公は、言葉の不自由な妻、息子と暮らす。しかし彼は夜中になると、こっそり他人が飼う馬を盗んで野に放っていた。それがばれて村人たちはケンタウルスの処分をめぐって議論する。
冒頭に夜中に厩に忍び込んで馬を盗み、馬に乗って両手を広げながら駆ける男の姿が出てくる。その美しさに息を飲む。主人公のケンタウルスは元映写技師で、自宅で妻の若い頃の映像を写したり、息子に手で影絵を作ってみせたりする。
あるいは通りで飲み物を売る女性は、アフガン戦争で夫を亡くしたが、飲み物を買いに来るケンタウルスを気に入っていた。2人が一緒に歩いているのを見た彼女の同僚は、怪しいと疑う。
馬を盗まれたカラバイは、献金を頼みに来たイスラムの伝道師を信用しているようには見えないが、馬を見つけたら金を払うと約束する。結局馬は見つかって金を払う。
「馬を放つ」ケンタウルスへの処分が決まり、彼は坊主頭になってイスラムの儀式に参加するが、突然映写機にフィルムをかけて、映画を流し始める。
遊牧民を祖先に持つ者たちの馬への根源的なこだわり、イスラム教への信仰と懐疑、グローバル化の波が訪れて伝統的な暮らしが失われてゆくことへの焦り、映画とスクリーンに写るすべてへの愛、家族と隣人への愛など、それら細部がないまぜになって、だんだん渦に巻き込まれるように心が揺れる。
すべてをわかったようでちょっとお茶目なケンタウルスがいい。そしてその奥さんやケンタウルスを好きになってしまう飲み物売りの女性も愛おしい。いや、多くの馬を持つオシャレなカラバイや盗人として知られる男やイスラムの伝道師や村長さえも、見終わるとみんな懐かしくなってくる。
こういう映画は、田舎に生まれて心の奥に田園や森林の風景を抱えている私にはずっしり来るが、生まれながらの都会人にはどう見えるのだろうか。
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