「横山大観展」に考える:その(2)
横山大観展を見た直後に読んだのが、古田亮著『横山大観』。古田氏はもともと東博や東近美の学芸員をやった後に今は東京芸大美術館の准教授で、近世から近代の日本美術研究の若手ホープ格だろう。彼が芸大で手掛けた「高橋由一展」や「漱石と美術」展などは素晴らしかった。
さてその高橋氏は大観をどう見るのか。読んで思ったのは、大観について知るのに役だったが、高橋由一論ほどは面白くはなかったということ。
この本には極めてオーソドックに大観の生涯が述べられているが、大観が目指したものやその果たした役割についての記述は多くない。最後の短い「大観小論」の部分がそれに当たるだろう。
彼は大観の作品を「意志の芸術」と呼ぶ。「日本画を改革しなければならないと岡倉天心にしたがった明治期、彩管報告をまっとうしなければならないと先頭に立った戦中期、そして無窮を追う理想的絵画を描かねばならないとうったえた戦後期、とその時代ごとに違った色合いをみせている」。つまり自然体ではなく、「ねばならない」の画家である。
さらに「描かれる側の意志」も考える。「意志としての自然、あるいは<近代日本>の意志を画面に表すこと、それを目的としたところに大観芸術の真髄があり、描かれた世界は特徴づけられている。当然ながら、漱石のように意志を意地と読み替えれば、窮屈にも世間をわたっていかなければならぬ偏屈な画家の姿も浮かびあがることになる。実際、本書でたどってきた大観の歩みは、自ら進んで世間とのぶつかり合いにまみれてきた感すらある」
私が今回の東京国立近代美術館の展示を見て感じたのは、確かに「日本」を表そうとする強い意志だった。数時前にすべての絵に「政治的意図」を感じたと書いたが、それはそのような「意志の芸術」だったからだろう。
私が時代も題名もサンフランシスコ講和条約の直後の気分を表した作品と思った《或る日の太平洋》には、「太平洋の波はアメリカを代表とする戦勝国を表し、その波上に、神聖で不可侵な国日本を象徴するように龍の昇天する富士を描いたという解釈が成り立つからである。いずれにせよ、この作品が発している只ならぬ雰囲気は、義憤をもって国情を憂う大観の愛国心と無縁ではない」
結局、明治から一直線に来た大観の愛国心は敗戦後も変わらなかったということだろう(古田氏はそうは書いていないが)。では40メートルの傑作《生々流転》(1923)はどうか。まず驚いたのは、この作品が展示された初日、1923(=大正12)年9月1日に関東大震災が起きたという記述。
「一滴の雫がやがて川となり大海に注ぎ、最後は雲となって天に昇るという水の姿の移り変わりには、「死」という終わりがない。水は、再び一滴の雫に帰るのである。「生々流転」は人の一生であると同時に自然そのものである」
これはまさに自然に東洋思想的な人生観を見てとる「意志としての自然」だろう。すべてを日本や東洋の意志や思想として見せたのが大観だったのではないか。この本を読むと、そうは書いていないが、「ウルトラ国粋主義者」としての大観像が浮かび上がってしまう。
ローマでの展覧会向けに描いた《夜桜》が出品される連休明けの後期の展示を見て、また考えたい。
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