「映画狂」について考える本
石岡良治、三浦哲哉編著の『オーバー・ザ・シネマ 映画「超」討議』を読んだ。これは編者2人がテーマごとに1人ずつ招いて公開で議論したものをまとめたもので、入江哲朗、土井伸彰、平倉圭、畠山宗明の4人が加わっている。
このうち面識があるのは2人だが、いずれにしても私より一回りから二回り若い。一番若い入江氏は27歳も下だ。そしてみなさん恐ろしく優秀で、話し言葉なのに私には半分くらい何のことかわからない。たぶんかつてなら哲学や仏文をやっていたような秀才たちが、今は映画や映像研究に来ているのだろう。
わからないながらも、時々「そうだ」と思う部分もある。一番考えたのが、「シネフィル」=映画狂についての討論だ。もともと「オーバー・ザ・シネマ」という題名からして、「映画」を相対化する意思が伝わってくる。参加者はみなさん映画に詳しいながらも、漫画やアニメや美術などの別の専門を持ち、「映画狂」の問題点を指摘する。
まず「古典」と「ランキング」をテーマにした議論がある。「映画を熱烈に愛好し、この作品は良くてこの作品はだめだと、はっきり腑分けをする態度がシネフィリー(映画狂)にはつきまといますが、そのような身ぶりの歴史性について考え、その政治的な効果についても新たに検討したいと思っています」と三浦氏。
石岡氏は言う。「映画を映画として見るというときに、まずつねに敵として想定されるのは、映画を主としてシナリオとスターから見るという見方です」。確かに。別のところでは、「シネフィルって一方では知性を失えという主張だと思うんです。すごく雑に言うと、アテネ・フランセの前の方でずっとスクリーンを見ている人とかのイメージです」
三浦氏は「ランキング主義」の起点はヌーヴェルヴァーグにあり、それは「映画のアーカイヴ化」、つまりシネマテーク・フランセーズで過去の映画を収集したことに依ると説明する。石岡氏は「シネフィルが苦手と言ったのは、なんかそれを一致させようとする共同体意識が嫌だな、ということです。こいつを褒めたら映画好きと認めないみたいなね」
日本では、80年代から蓮實重彦氏が絶大な影響力を持ったことで、大きな歪みが生まれたと思う。石岡「だからそういう歪みをどこかで日本のシネフィルは直せなかったから、今の映画好きの多くはシネフィル的な趣味を捨てちゃっているでしょ」
三浦「ランキングを超歴史的に、良い映画を示すカタログだ、っていうふうに捉えて流通させると、本家本元がリアルタイムでその時に実践したランキング作りのパフォーマティブな、というよりクリエイティブな側面が抜け落ちるし、そのときにフォロワーの格好悪さっていうのが絶対出てくる」
私は90年代前半から15年ほど、蓮實さんと組んでリュミエール、ルノワール、ホークス、ドライヤー、ラング、ムルナウなど映画狂向けの映画祭をやって、その「ランキング」化を広めた。一方で2000年以降、蓮實さんがほめないパゾリーニやヴィスコンティの全作品上映をやり、あるいはポルトガル、イタリア、ドイツの新作映画祭をやって、次第にそこから抜けていった。それは自然な行為だった。また自らのノスタルジアになったが、この本についてはまた触れたい。
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