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2018年4月14日 (土)

「ヌード」展をどう見るか

「ヌード」と題した展覧会が横浜美術館で6月24日まで開かれている。「英国テート・コレクションより」と書かれているように、英国の美術館の所蔵品展だが、いろいろ考えさせる内容だった。

「ヌード」といってもテートだから、英国を中心にした西洋美術だし、おおむね19世紀以降の近現代が対象となる。つまり展示作品からは、この200年ほどの西洋の「裸」に対する考え方が見えるようになっている。

「裸」といっても女性とは限らないが、男性ヌードは少ない。そのこと自体も西洋近代の視線を表している。まず最初の章は「物語とヌード」。多くは19世紀に英国で描かれた神話の中の裸婦だが、ある意味で女性を理想化している。フレデリック・ロード・レイトンの《プシュケの水浴》(1890)など、今風のお耽美なエッチ写真に見えなくもない。

ところが2の「親密な眼差し」でフランスの印象派やポスト印象派が出てくると、一挙に女は醜くなる。というより、目に写るリアルな印象を描くので、恋人の日常の裸の姿がそのまま出てくる。ボナールの浴室の妻の姿などはその典型だろう。

3「モダン・ヌード」では、ピカソやヘンリー・ムーアやジャコメッティが出てくるので、何でもあり。人間の身体をあらゆる見方でとらえ直すという感じで、エロティックさは感じない。

次の「エロティック・ヌード」の真ん中に、ロダンの大理石の彫刻『接吻』がある。これは男女の顔も女性の胸もあまり見せない。ひたすら無我夢中で抱き合う姿なので、エロティックというよりは愛の究極の形の表現か。

そのまわりにさまざまなデッサンや版画があるが、19世紀前半のターナーの水彩スケッチが、妙に淫靡な感じなのに驚く。ゲイのホックニーは男性同士の裸で、ルイーズ・ブルジョアは例によって女性性の強調。

その後の「レアリスムとシュルレアリスム」で見たマン・レイやデルヴォーやバルチュスは、今見るとあくまで男性から見た女性という感じ。シュルレアリスムをジェンダーの立場から分析した研究はあるのだろうか。

その後の3章は現代美術で何でもあり。ベーコンはベーコンでブルジョアはブルジョアの世界を見せるだけ。こうなるとあまり「ヌード」は関係ない。もちろんメイプルソープやシンディ・シャーマンにとって身体性は重要ではあるが。

あくまで男性の側から「見られる」存在としてのヌードが消えると同じ頃に、欧米ではアートの上でのヌードの検閲もなくなった。すると、身体性は残っても、ヌードはテーマでなくなってしまう。かつては春画があり、現在では写真や映画にいまだに検閲が存在する日本だと、このテーマの展覧会はどうなるのだろうか。そんなことを考えた。

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