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2018年4月16日 (月)

「横山大観展」に考える:その(1)

東京国立近代美術館で始まったばかりの「横山大観展」を見た。「生誕150年」と銘打ったものだが、「あっ」と思ったのは、大観は明治元年=1968年に生まれたこと。つまり、文字通り明治、大正、昭和と日本の近代を生きた画家だった。

大観と言えば、私のイメージは近代の日本画で一番真ん中に座る感じ。名前からしてそんな印象を与えるし、実際にそのような役割を果たしてきたと思う。後に芸大となる東京美術学校の第一期生で、亡くなる1958年まで絵を描き続けた。

彼の展覧会は、東京国立博物館や横浜美術館、あるいはデパートでも見たが、今回は見ながらなぜかその「政治的意図」が妙に気になった。琳派ばりの豪華絢爛な絵から水墨画まで、技術的には振幅が大きい。それを超えて、全体として「日本」を訴えているような気がしてならなかった。

あるいはすべての絵に、それぞれ「意図」が出ていると言ったらいいのか。展覧会の最初にある《屈原》は、よく知られているように師の岡倉天心の姿を描いている。美術界の主流に反対して荒野を歩く姿だ。卒業制作の《村童観猿翁》(93、これは連休明けの展示)や《無我》(97)は、まるで子供はこうあるべきと理想を描いたかのよう。

《迷子》(1902)はキリストや孔子、釈迦、老子に囲まれている青年を描くが、これはまさに列強諸国の間に立つ日本の姿そのもの。40メートルの《生々流転》(23)は今回は全篇を見られるが、これなど徒然草や平家物語などで表されてきた日本の無常観を何とか絵にしたいという執念で描かれた気がする。

そして1920年代あたりから戦時中まで作られた膨大な数の富士山の絵は、まさに「日本精神」の具体化という気がした。兵士や軍隊を描くようないわゆる「戦争画」はないが、特に40年あたりからは「神国日本」を象徴するような絵が多い。

戦後の絵は少ないが、《或る日の太平洋》(52)を見て驚いた。大波に描かれた龍の姿は、前年に締結されてこの年に発効したサンフランシスコ講和条約に抗うかのよう。遠くに富士山が小さく見えるのは「日本精神」が遠ざかるという意味か。

もちろん、それらの「政治的読解」を超えて、大観の絵はどれも見ごたえがある。およそ2/3の絵が入れ替わるので、5月8日以降にもう一度行きたい。5月27日まで。《生々流転》は全期間展示。やはり、大観は必見。

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