『ゼロヴィル』を読む
アメリカの現代文学の奇才としてスティーヴ・エリクソンの名前は聞いたがことがあったが、読んだことはなかった。前にここで書いた『オーバー・ザ・シネマ 映画「超」討議』で石岡良治氏と三浦哲哉氏が、彼の『ゼロヴィル』を取り上げていたので、読んでみた。
もともと最近の海外の現代小説は読んでいないが、これほどぶっ飛んでいるのかと思った。1969年にハリウッドにたどり着いた主人公ヴィカーが映画界で活躍をする15年ほどの話だが、話に脈絡がなく日常か夢か妄想かわからないままに進む。最初は映画の題名や俳優の羅列に私でもうんざりしたが、途中からはかなりおもしろかった。
ヴィカーは映画狂で、スキンヘッドの頭に『陽の当たる場所』のモンゴメリー・クリフトとエリザベス・テイラーのタトゥーを左右に入れている。そもそもこの映画がピンと来ない私は最初は好感が持てなかったが、アフリカ系の映画通の泥棒や編集者の師匠ドティ、あるいは売れない女優のソレダートと娘のザジなど魅力的な人物が次々に出てくる。
ヴィカーは映画の現場に出入りするうちに編集の仕事を身につける。一方でヴィカーは映画関係者と会うごとに、いらないフィルムをもらって自宅にコレクションする。彼が編集した映画がカンヌで賞を取り、新作を監督することにまでなるが、その企画はどこかに行ってしまう。
そんな話だが、細部は映画狂的発言に溢れ、映画史の事実がいつの間にかヴィカーの日常につながっている。ヴィカーの家に入った泥棒を捕まえて警察を待っていると、テレビでは『荒野の決闘』をやっている。泥棒は「ありゃもうノワール・ウェスタンだよな」「フォードはご婦人を全然監督できなかったのさ。そこは我らがハワード・ホークスとは全然違う、ホークスのご婦人はみんなイケてるし、おまけにタフときてる」
こんなふうに引用したらきりがない。一番の極めつけは、ヴィカーがノルウェーの精神病院で『裁かる々ジャンヌ』(1928)の原版を見つけるくだり。実際に1984年にその場所で見つかっているが、ヴィカーがそこに導かれるのは、パリのシネマテークの館長からオスロの精神病院を示唆されたから。そしてそこには、いくつもの映画に埋め込まれた同じコマがあるという訳の分からない話。
たぶん百本以上の映画の題名が出てくるが、日本映画もある。鈴木清順の『殺しの烙印』と増村保造の『盲獣』だが、どちらも日本映画というだけで題名は出てこないから、見ていないとわからない。それにしても小津でも黒澤でもない渋い趣味。
彼が監督するはずの映画のカメラマン候補に、ロビー・ミュラーが挙がったりする。実名なしに。「ドイツから出てくる新しい映画を何本か撮った人が、『さすらい』とか『アメリカの友人』とか、ちょっと見てみるといいかもしれない」。もちろん監督のヴェンダースの名も出さない。
読みながら、かつて映画ばかり見ていた30数年前の自分を思い出した。1980年代だから時代も近い。現実と映画が入り混じるそんな生活から抜け出して、ある時から私は普通の常識的な人間になってしまった。
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