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2018年6月30日 (土)

日本統治下の韓国映画:その(1)『授業料』と清水宏

2015年末に日本統治下の韓国で作られた映画数本をフィルムセンターで見たことはここに書いたが、そのうち『授業料』のDVDを入手した。韓国版だが、何とYAHOOショッピングで3000円程度で売っていた。

発行元はKorean Film Archive=韓国映像資料院で、つまりはフィルムセンターのようなものだが、韓国語と英語の詳細な小冊子がついている。監督は崔寅奎(チェ・インギュ)と方漢駿(パン・ハンジュン)だが、冊子には大半が崔が監督したが病気になったので方が手伝ったと書かれている。

小冊子によれば、2014年に中国の映像資料院で発掘されたらしい。すでに2004年に7本、2006年に1本の日本占領下の映画が同じ場所で発見されている。つまりは満州時代に持ち込まれたものだ。だから日本語字幕が焼き込まれている。

前にも書いたがこの映画が興味深いのは、監督は韓国人だが日本人が何人も参加していること。まず最初に「高麗映画 南大門撮影所」と出てくる。次に「朝鮮総督賞綴方 京城日報所載」「製作 李創用」「企画 西亀元貞」「脚色 八木保太郞」「原作 禹寿栄 光州小学四年生 台詞 柳致眞」「音楽 伊藤宣二 演奏 東京交響管弦楽団」「衣装 京城三越 主題歌 日本 ポリドールレコード」「国語版監修 飯島正」

解説によれば製作の李は高麗映画の社長。これが日本人の「企画」の前に出ることは重要だろう。ポスプロは日本で行われたと書かれているので、音楽を入れて飯島正が日本語字幕を付けたと考えられる。監督や脚本は韓国人で、日本人が製作に協力したと言えるのではないか。

今回見てすぐに思ったのは、音楽が清水宏の映画に似ているということ。調べてみたら、作曲の伊藤宣二は松竹大船撮影所を中心に、戦前の小津安二郎や清水宏の多くを手がけていた。1940年以降は高麗映画、半島映画、明宝映画といった日本統治下の韓国映画も作曲している。

そして小冊子には映像資料院のチュン・チョンファ研究員が、「日本で公開された時は『綴方教室』(1938)の韓国版と言われた」「しかし伊藤宣二が清水宏監督の作曲を手がけており、公開当時韓国で監督や批評家の評価が高かった清水の『子供の四季』(39)の影響をより受けていると考えるべきだろう」「しかし繊細で洗練された清水の子供映画群に比べると、チェ・インギュの映画はシンプルで時おり粗雑である」

清水は同じ1940年に京城(ソウル)で短編『京城』と『ともだち』を撮っている。おそらく高麗映画社と交流があったのではないか。そんな資料があるとおもしろいのだが。

この映画は1940年4月30日に韓国で公開されて「予想外の人気」だったらしい。日本では9月に東和商事によって公開されて、「高麗映画人が商業主義に侵されない芸術映画を作る可能性を見せた」と日本の批評家は書いたという。こちらは簡単に探せるだろう。だんだんおもしろくなってきた。

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コメント

ご参考。宋さん、まだご健在じゃないかな。


朝鮮服の私と日本人監督――元教師宋桓昌氏(文化)


2013/08/09 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1825文字


植民地時代、清水宏の短編劇映画「ともだち」に出演
 ソウルに住む私はこの夏、東京国立近代美術館フィルムセンターを訪れ、73年ぶりに「ともだち」という映画を見た。1940年に日本の清水宏監督(1903~66年)が、植民地時代の朝鮮で撮った短編劇映画だ。当時11歳だった私は、李聖春という名前で、この映画に出演している。
 懐かしかった。清水監督はこのころ37歳。私にしてみれば、まるでお父さんみたいな人だった。撮影するときも、親切な言葉をかけ、優しく指導してくださった。
 ▽ ▼ ▽
 シナリオなしで演技
 内地(日本)から朝鮮の小学校に転校した少年が、一人だけ朝鮮服を着た貧しい朝鮮の少年と友だちになるという話である。「風の中の子供」(37年)の清水監督が得意とする子供の映画だ。
 シナリオがあったのかどうか知らないが、少なくとも私は撮影前も撮影中も見たことはなかった。セリフも動きも、清水監督が撮影現場でおっしゃる通りに、ただ忠実にやった。
 「今度のシーンは向こうからこちらに走ってくるんだ」「頭は下げたまま。ここまで来たら頭をあげるんだよ」というように。カメラに収まらなかったら「もう一回」。うまくできたら「ああうまい。そうするんだよ」。
 まじめだったから「飛び越えろ」と言われたら、高い塀も迷わず飛び越えた。走る場面を何度もやりなおして、息をハアハアさせていた。
 ▽ ▼ ▽
 突然の抜てき
 私はソウル市内の小学校で4年生になったばかりだった。ある日、校長先生に呼びだされ「映画に出なくてはならないことになった」と言われた。校長室には清水監督もいらっしゃった。仰ぎ見るように大柄な人だった。
 俳優の訓練を受けたこともなければ、素質があるとも思えない私が、なぜ指名されたのかはわからない。思い当たるのは、私がまじめで勉強もできたということくらいだ。
 当時のお上には「内鮮一体」という政策があった。内地と朝鮮の小学生の友情の物語はその政策に沿ったものだった。相手役は横山準さん。「爆弾小僧」の愛称もあった人気子役だ。彼が小学4年生だったので、同じ年ごろの子が入用だった。
 撮影は1カ月くらいだったと思う。2、3日おきに撮影に呼ばれたので、よく学校を休んだ。場所はソウル近郊のスウォン。宮城跡があり、映画にもそれがでてくる。
 朝鮮服の少年を演じたが、私はその時生まれて初めて朝鮮服を着た。当時のソウルの小学校は立派な鉄筋校舎で、みな詰め襟の学生服にランドセルで通った。朝鮮服を着て来る子はいなかったし、風呂敷に本や弁当をくるむ子もいなかった。
 荷物を頭の上に乗せて歩く場面がある。あれも女性がすることはあるが子どもはしない。朝鮮の風習をわかりやすく見せようとしたのだろう。
 清水監督が同時期に撮ったドキュメンタリー「京城」(40年)も今回東京でみた。この映画には当時のソウルの街のモダンな風景が映っている。
 ▽ ▼ ▽
 芸名は監督の思いつき
 芸名の李聖春は清水監督がつけた。「名前は?」と問われ、「白川栄作です」と答えた。当時は創氏改名させられていたからだ。「そうじゃないよ。朝鮮名だよ」とおっしゃるので、「宋桓昌です」と言うと、「宋? 中国人みたいだな。朝鮮人は李だ。李にしよう」と清水監督。その場で決まった。
 後に学校に「映画に出ていた子役がいるはずだ」と李聖春を探しに来た人もいたが、そんなわけで見つからなかった。
 映画が完成すると新聞に「半島映画界に天才子役あらわる」という記事が出た。映画館の人たちには顔が知られたので、その後は木戸銭なしで映画を見せてくれた。
 翌41年には崔寅奎監督の朝鮮映画「家なき天使」に白川栄作の名で出演した。映画出演はこの2本だけだ。出演依頼はあったが、教師だった父が固く断った。私はソウル大学の農学部に進み、農業高校の教師になった。
 私が子役をしていたことを知っていたのは周囲のわずかな人だけだ。中学は日本人との共学校に進んだが、当時の友人も誰も知らなかった。映画に出たことを誇ってもいないし、悔いてもいない。そうするしかなかったし、今はただ懐かしい。
 7月21日のフィルムセンターでの上映を中学の同級生たちも見に来てくれた。私はあいさつでこんな和歌を詠んだ。
 迷いなく熱演したるともだちは日本人たりし幼時のわが像
(ソン・ファンチャン=元教師)
【図・写真】清水宏監督の「ともだち」(1940年)の一場面。横山準(左)と筆者

投稿: 古賀重樹 | 2018年6月30日 (土) 22時09分

重要な記事ですが、見落としていました。『ともだち』に出演した韓国人少年が崔寅奎監督『家なき天使』に出演していたとは、びっくりです。やはり深い関係がありますね。

投稿: 古賀太 | 2018年7月 1日 (日) 09時40分

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