「ウソつき」について考えた
先週の『アエラ』で「ウソつきとは戦え」という特集があった。モリカケ問題に関して、安倍首相を始めとする政治家や官僚がウソをついてきたことに端を発する特集だが、一般的な「ウソ」というものを解明する記事もあった。
「私もあなたもウソつきでした」という記事では、さまざまな人々のウソつき体験が語られている。営業のハッタリから社内不倫、結婚時の話まで、いろいろある。「助けてほしいだけなのに」という記事では「子供のウソはむやみに叱ってはダメ」として、「子供のウソには、心のSOSのサインが隠されている」と書く。
「盛り過ぎが止まらない」という文は、「病的な虚言者は呼吸するようにウソを吐く」。中高年のウソもあって、定年退職した男性は、「テレビに出てくる有名人の名前を挙げ「一緒に仕事をした」「海外を飛び回っていた」などと輝く人生ストーリーを語る」。これなどは自分もやりそうでイタイ。
さて私はウソをつくか。今はたぶんウソをつかないが、「この人にはこの話はすまい」ということはある。無益な荒波を立てないために、自分の心の中にしまい込む。
私の最近の言葉でウソに近いのは、相手を喜ばせるため、その場を盛り上げるために、誇張して語ること。ある人物がどんなにケチかを言うために、「盛って」話す。これが酒が入ると、「おもしろおかしく、あることないこと」語るようになる。悪意はなくても、ウソはついている。
若い頃はもっとあった。大学生の時に、私が読んでもいない本を読んだと言ったのを友人に見破られたことがある。「古賀はウソつきだ」と言われてドキリとした。書評を読んで本屋で手にしてだけだが、適当に感想を言ったはず。若い頃はそうした虚栄があった。私をウソつきだと言った岩永君は福岡の読売新聞にいるはずだが、元気だろうか。
その後映画好きになってからは、見ていない映画が話題になると恥ずかしくて「そうですよね」と合わせることがあった。このことに関して国立映画アーカイヴ(当時はフィルムセンター)の岡島さんは、30年頃前に飲んでいる時に「見ていない映画を見たというヤツが多いが、だいだいロクでもない」と言った。
それ以降、見ていない映画を見たフリをすることはやめた。今考えると、若い頃ゆえの虚勢はかわいいものだと思うけど。今では学生に「えっ、先生、見てないんですか」と言われても怖くない。「すべての映画を見ることは無理だよ」と言えば済む。
それにしても、「ウソ」の話は妙に私の心に突き刺さった。
| 固定リンク
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- 飛行機のトラブル(2026.09.07)
- 美術と映画をめぐって(2026.08.26)
- 本を売る(2026.08.20)
- 人生の僥倖(2026.08.09)
- いつの間にかイタリア映画の専門家に(2026.08.07)


コメント