寺尾さんが亡くなった
寺尾次郎さんが亡くなった。多くの映画好きにとっては、フランス映画を中心とした字幕の翻訳家として親しんだ名前だと思う。私もそうだが、字幕を始められる前から個人的にもつき合いがあった。
最初に会ったのは、たぶん1987年かその翌年のこと。最初の職場で「総務課」に配属された私は広報担当になり、フランスから招聘したジャン・ルーシュ監督(当時はシネマテーク・フランセーズ総裁)の特集上映を牛山純一さんに頼んで有楽町の映像カルチャーセンターで開催してもらった。
その時の取材で、「ぴあ」の稲垣さんの通訳として現れたのが寺尾さんだった。彼の名刺は「ベストロン映画」のマーケッティング部長で、ルーシュが「新しいタイプの教養溢れるビジネスマン」と驚いていた。
それから次第に飲む機会が増えた。1996年にフィルムセンター(当時)で開催したジャン・ルノワールの全作品上映では、権利処理や資料収集を手伝ってもらった。これはフィルムセンターの岡島さんと当時国際交流基金にいた岡田さんと私が企画し、寺尾さんとパリの吉武さんと後に明学の先生になった斉藤さんがコーディネーターという贅沢なメンバーだった。
その頃は既に字幕翻訳家として活躍しておられたが、いつもラフな格好で夏はTシャツとジーンズだった。2000年頃に彼がフランスから芸術文化勲章をもらったのは、横浜のフランス映画祭の会場だった。宴会をやって最後は彼のホテルまで行って騒いだ。その部屋に手帳を忘れたからよく覚えている。
その後は時々試写会で会ったり、たまに岡島さんと一緒に飲んだり。一度だけご自宅に伺ったのは、ある原稿を書くのに、寺尾さん所蔵のVHSを借りるためだった。フランス映画に関しては「カイエ・デュ・シネマ」誌と「ポジティフ」誌を定期購読していたし、膨大なビデオを持っていた。
荻窪だったと思うが、いわゆるマンションでないずいぶん質素なアパートだった。それが私の顔に出たのか「映画の字幕をやって、アパート代と飲み代さえ払えたら十分」と笑った。飲んでもほとんど食べない人だったが、ある時アル中で長期入院したことは、退院後に聞いた。
その後、岡島さんと3人で飲んだ時は、彼は酒に手をつけず、大声で話して笑いながら食べていた。まるで一緒に酒を飲んでいるようだった。この数年は、年に1度くらい大学に来ていただき、映画字幕について話してもらった。初回はシュガー・ベイブのことも話してくれたが、その後は語ろうとしなかった。手帳を見ると、最後は去年の11月29日だったが、「今日は字幕の作り方でなく、その歴史を語りたい」と言った。終わった後に一緒に蕎麦を食べた。
その年の夏に映画『リュミエール!』の字幕で一緒に仕事できたのが、いい思い出になった。私が「字幕監修」という恐れ多い役割だったが、メールや電話のやり取りが楽しく、気持ちよく仕事ができた。
いつも斜に構えて笑い、ひとり洒脱に生きている感じでカッコ良かった。つまり、私の正反対だった。
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コメント
確かに、残念ですね。
身近な人が去って行くと、本当に寂しいです。
我々もそういう歳になって来たと言うことですね!
でも、最後のフレーズ笑えました。流石!
投稿: 木下 | 2018年6月 7日 (木) 20時54分
たむらさんと寺尾さんが亡くなって一つの時代が終わった気がします。ただ飲んでいただけですが、あの至福の時はもうよみがえらないでしょう。天国で一緒に飲んでるとしたら、うらやましいな。
投稿: 古賀重樹 | 2018年6月 7日 (木) 21時31分