私にも承認欲求が
最近、「承認欲求」という言葉をよく聞く。心理学的な正確な定義は知らないが、誰もが他人に認めてほしい欲求を持つ、ということだろう。実際に大学で教えていると、どんな怠け者の学生でも(あるいは、こそ)、この欲求があるのがよくわかる。
特に4年生の卒論指導などで、一対一で話すとよく感じる。本当は一年生の時から、もっと個々の学生と向き合って話さないといけないと思う。
ところがそういう欲求は自分には無縁だと思っていた。かつては大いにあっただろうが、今や60歳に近く、特に今の境遇に不満はない。今さら誰に認められたいなど、あるわけがない、と。
ところが今回、ある大きな賞の選考委員からはずれたのを知って、悲しかった。自分には身に余る大役だが、必ずしも学者としての実績ではなく、今までの自分の紆余曲折のキャリアが認められたのだと納得していた。私は本も書いていないし論文もロクなものはないが、ほかの大学教員の知らない世界を知っている自負はある。
たまたま、去年まで文化庁の委員を2つやっていた。1つは3年、もう1つは4年やったので交代となった。賞の方は1回だけだしそもそも期限がないので、明らかに「はずされた」のだろう。というわけで、学会のような「名誉」感の薄い「委員」を除くと、今年は「どうだ」というような「委員」がない。
「委員」といっても、会議に出かけて行って少し高い弁当を食べて、意見を求められると偉そうに一言、二言、言うだけ。私の知る限り、本当に優秀な人は時間の無駄なので断っている。私もそうなりたいが、やはり「俗物」のせいか引き受けてしまう。
そういうところに呼ばれて行ってふんぞりかえると、自分が認められた気がするのだろう。これは立派な「承認欲求」だ。なんだ、大学生と変わらないじゃないか。
そんなことを考えていたら、文化庁から新しい委員の依頼があった。電話が来た瞬間にすぐわかったが、何と、「嬉しかった」。ああ、自分はまだ忘れられていない、と思った。できるだけ平静を装って承諾したが、にやついているのがバレたに違いない。
私の恩師は65歳になった時に、すべての委員を辞めた。せめてそれを目指したいと思うが、あまりの「俗物」の私にできるだろうか。
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