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2018年9月12日 (水)

最古参になってしまったベネチア映画祭:その(11)

もう日経新聞での報告も出たので、映画祭全体をよりラフな形でまとめてみたい。今回の特徴は、「配信系」、「歴史物」、「長尺」だった。それは実は奥でつながっている。

とにかくどれも長い。21本のコンペで120分を切ったのは、数えてみたら何と4本しかなかった。多いのは150分前後だったが、一番長いのはフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクの「作家なき作品」で188分。次に長いのは、カルロス・レイガダスの「われらの時代」が173分。共に無冠だったが、相当の力作だった。

コンペの作品の最後に上映された塚本晋也監督の『斬、』は、イタリアの新聞各紙で「長すぎる映画が続いた後の最後の映画は80分」と、なによりその短さに言及されたくらい。

配信系はネット・フリックスが3本、アマゾンが2本だったが、すべて120分を超している。これが何を意味するのかは明白だ。普通映画会社は大手になればなるほど、配給や興行のことを考える。長い映画は上映回数が減るので迷惑極まりない。

配信は、むしろ顧客が長い時間を過ごした方が良いサービスになるかもしれない。30分長いことは配給には致命的だが、配信には全く影響がない。

そして歴史物が2/3あるのは何を意味するのか。実は1970年代を描いた「ローマ」も歴史物とすると、今回は受賞作がすべて歴史物だった。たぶん国際映画祭でこんなことはほかにないのではないか。

まず、歴史物はお金がかかるから、普通の映画会社はよほど当たることが保証されない限り敬遠する。監督は思い入れのあるテーマだからやりたい。結果として配信系5作品はすべて歴史物だった。もちろん歴史物は長尺が多い。

つまり、「配信系」「歴史物」「長尺」は「作家主義」へとつながっている。これからも配信系は増えるだろうから、カンヌがこのままネットフリックスと揉め続けたら、国際映画祭の王者の座を降りるかもしれない。その意味でネットフリックの「ローマ」が金獅子賞を取った今年のベネチアは、映画祭の転機となる可能性がある。

もっと大事な問題は、本当に監督にやりたいテーマで好きなだけ長い映画を作らせていいのかというものだ。映画は長年、監督とプロデューサー(あるいはヘイズコードや検閲)との葛藤のなかで傑作が生まれてきた歴史がある。監督が作家主義で好き勝手に作ったらいい映画ができるかは、実は疑問だ。

ベネチアで長い映画に疲労困憊しながら、今後は監督の自己チュウ映画が増えるのではと心配になった。ちなみに長い映画が嫌いなのは配給、興行のみならず、評論家や記者も同じかも。

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