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2018年11月29日 (木)

ベルトルッチが死んだ

夜、「ベルトルッチが死んだ」と聞いて、彼の『1900年』の冒頭に出てくる「ヴェルディが死んだ」という言葉を思い出した。イタリアのベルナルド・ベルトルッチ監督は、若い頃一番好きな監督だった。最初に見たのは、たぶん『暗殺のオペラ』(1970)で、大学2年生の時、福岡での自主上映を手伝って見た。

ボルヘスが原作ということもあり、さっぱりわからなかったが、とにかくカッコよかった。その頃の私にとって「映像美」という言葉は、アンドレイ・タルコフスキー、テオ・アンゲロプロスの3人に結びついていたが、この監督が加わった。

その次に見たのは、『1900年』(76)。5時間を超す映画で、東京のスバル座で、途中休憩で500円のサンドイッチを食べて見た。福岡の大学生だった私は、毎年2回ほど東京に行って、高校時代の友人の家に泊まり、話題の芝居や映画や展覧会を見ていた。『1900年』はサントラ盤のCDまで買った。

その次はたぶんパリで見た『革命前夜』。『パリ、テキサス』でカンヌのパルムドールを取ったばかりのヴィム・ヴェンダースが選んだ「私の20本」がシネマテークで上映され、その中の1本だった。私はこの映画に文字通り恋に落ちた。ジーナを演じたアドリアーナ・アスティの大きな瞳に魅了され、「ロッセリーニなしでは生きていけない」という言葉を真に受けた。

パリでは『ラスト・タンゴ・イン・パリ』も見た。パリの地下鉄でジャン=ピエール・レオ―が両手でカメラのように四角を作るシーンをなぜか覚えている。それから帰国して、1年大学院に行った後、就職した。その頃に『暗殺の森』や『ルナ』は映画館で見たし、イタリア文化会館で『パートナー』や『ある愚かな男の悲劇』などを字幕なしで見た。

イタリア語の勉強を始めたのもその頃だ。大学院で1年間授業を取り、働き始めてからは会社の補助金をもらって仕事の後にイタリア語の講座に通った。そしてイタリア人の彼女ができた。

結婚して(日本人と)、『ラスト・エンペラー』を東銀座の東劇で見た。その前の週に行った丸の内ピカデリーでは満員で入れなかった。当時人気抜群のジョン・ローンが鮮烈な印象を残したし、「映像美」も健在で坂本龍一の音楽も艶やかだった。

私にとって失望が始まったのは、次の『シェルタリング・スカイ』からだった。『リトル・ブッダ』もどこかおかしい。『魅せられて』 『シャンドライの恋』『ドリーマーズ 』『孤独な天使たち』と見続けたが、「復活」はとうとうなかった。それでもこの監督の映画はすべて見た。私が映画を仕事にするきっかけとなった「神様」の1人だったことは間違いない。

その「神様」に1度だけインタビューをしたことがある。2001年にフィルムセンターでイタリア映画を50数本上映した「イタリア映画大回顧」の前に、カタログのためにベネチアでインタビューした。「朝日」に記事を書く石飛記者と一緒だった。これについては後日(たぶん)。

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コメント

映画的官能性や素養の高級感が過ぎて近しい作家とは言えなかったが、周囲でも殆ど話題になっていないことに驚く。自主上映の少ない地方なので、『暗殺の森』が初見参で、それでもその時の「やっと」という、期待の大きさは今でも忘れない。同じ頃、スコリモフスキー(『早春』)も地方では初お目見えで、年間ベストテンでどっちを上に置こうか迷った(3位と4位)。が、29歳のその作品でピークを極め、その後はマスの社会的感情に向ける作風が強くなって、格調や仕掛けの規模は増しても、真に感性・理性へ訴える影響力が弱まっていったのだろうか。まして晩年は長く病魔の為に表舞台に出ることが少なくなっていた。永く再見していないが、当初『スパイダー戦略』と仮題のついてたその前作も、同じ70年代に観た『黒水仙』『黄金の馬車』『アマルコルド』らと並び、私の観た最も美しいカラー映画の一本だった。

投稿: 瀬古誠治 | 2018年11月29日 (木) 18時19分

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