ペドロ・コスタの不思議な言葉
若い友人の土田環さん編・訳の『歩く、見る、待つ ペドロ・コスタ映画論講義』を読んだ。ポルトガルのペドロ・コスタ監督の映画はヘンだ。だいたい貧民窟のようなところで、モソモソと生きている人々を描く。物語はあるにはあるが、奇想天外でよくわからない。
ところが見ているうちに映像のリアリティの強さや繊細さに惹かれてゆく。えんえんと続く固定ショットがあったりするが、だんだんとその退屈さが気持ちよくなってくる。
最初に彼の映画を見たのは、「ポルトガル映画祭2000」を企画した時。ポルトガル大使館から送られてきた膨大なビデオを見ながら「パオロ・ブランコと90年代ポルトガル映画」というテーマに決めて、9本を選んだ。ペドロ・コスタの『骨』はその中の1本だった。
それから2003年の小津安二郎生誕百年記念国際シンポジウムに、彼を招待した。今だから言うと、1か月前にキャンセルしたヴィム・ヴェンダースの代わりだった。そのシンポで彼は「小津はパンクだ」と言って大いに受けた。一風変わったロック青年だと思った。
さて本に戻ろう。土田さんの後書きによると、彼がペドロ・コスタと会ったのはこのシンポの時で、頼まれて原節子の住む家の前まで一緒に行ったらしい。実はその日の「公式事業」は、北鎌倉の小津の墓参りでマノエル・デ・オリヴェイラも参加したが、ペドロ・コスタは同じ鎌倉で「別行動」をしたわけだ。
平気で「別行動」をするような大胆さと不敵さが、この本の言葉には満ちている。彼は「政治的な映画監督」は実はアヴァンギャルドではなく、「保守的で反動的」でありながら「目の前にある現実をよりよくする」として、ジョン・フォード、ロベール・ブレッソン、小津安二郎の3人を挙げる。
内容的には3人とも保守・反動だ。あえて言えば形式においては小津やブレッソンはアヴァンギャルドだが、これにジョン・フォードを加えるところがペドロ・コスタらしい。そう言えば、蓮實重彦氏の好きな監督ばかり。
彼は自分の映画作りを「着る人の寸法を測ってシャツを作る仕立て屋」に例える。「私の映画に映っている人々、その多くは労働者となりますが、彼らに対して心からの敬意をもって接することができるようになりました」。
彼は映画のエキストラの存在を大事にする。「私の映画には非職業的な俳優が登場しますが、そのなかのひとりの少年が病気になって現場に来られないならば、私は撮影を中止します」
ほかにも謎のような言葉に溢れていて、それこそブレッソンの『シネマトグラフについての覚書』のよう。この本は東京造形大学での講義が中心だが、学生は途方に暮れたのではないか。あるいは一部にはその誌的な言葉は伝わったのだろうか。いずれにしても、こうしてゆっくりと本として読むと、ある種の普遍性が出てくるから、あら不思議。
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