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2018年12月16日 (日)

日本映画史はマッチョの嵐か:その(2)

黒澤明の『羅生門』(1950)は、戦後日本映画が海外に進出する契機となった映画として知られている。翌年のベネチア国際映画祭で金獅子賞を取り、欧米で公開された。その後1950年代は欧州の映画祭を時代劇が席巻した。

私は実はこの映画を大学2年生の時に見て、寝てしまった。たぶん、いくつもの人間の証言とその思い出す画面が行き来する複雑な構成について行けなかったのだと思う。それ以来、何となく避けていた。

最近、授業で久々に見て思ったのは、これまたマッチョな男性原理の映画ではないか、ということ。この映画は侍の死体が見つかり、何人かが検非違使長に呼び出されて白砂の上で次々に証言する構成だ。その証言内容がどう見ても男性中心に思えてしまう。

まず、多襄丸(三船敏郎)の話。侍(森雅之)を縄で縛り、目の前で妻(京マチ子)を犯す。するとその妻は男2人で戦って勝った方と一緒になると言い放つ。多襄丸は勝ったが、妻は逃げていたという。そもそも強姦をされた女が、こうした発言をすることはありえないのではないか。

妻の証言は、夫は犯された自分を軽蔑して眺めたというもの。妻は「殺してくれ」というが、気を失っている間に夫は殺されていた。自分の妻が強姦されたのに、軽蔑する夫がいるだろうか。

死んだ夫の話はイタコが語る。妻は犯された後に多襄丸が好きになったと語る。これは多襄丸よりさらに男性中心だろう。

つまりは、女は強姦であろうが関係を持てばその男を好きになる、という発想がもとにある。ポルノ映画やピンク映画によくある展開だが、これは根本的に男性のマッチョな妄想でしかない。実際にはめったにないのでは。

話は変わるが、増村保造の『赤い天使』は、私は女性中心の映画だと思っていた。若尾文子演じる従軍看護婦の西が軍医を好きになり、不能まで直してしまう。

ところが見直したら、冒頭が気になった。西は配属早々に兵士の坂本に強姦される。彼女はそれを婦長に言いつけたので坂本は前線に出されて重傷を負う。その場に出くわした看護婦は、坂本を救おうとする。これまた「女はヤレば好きになる」という考えではないか。

この発想はいったいどこから来たのだろうか。明治以降のことなのかどうか。

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