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2019年1月18日 (金)

川口恵子さんが亡くなった

川口恵子さんが亡くなった。といっても、彼女のことを知っている人は多くないだろう。大学で非常勤講師をしながら、ネットを中心に映画批評を書いていた。私もそれほど親しかったわけではないが、何年に一度かはさまざまな理由で会った。

最初に会ったのは、1984年パリ。まだ結婚後間もない一つ下のダンナさんと、パリ国際大学都市のギリシャ館に住んでいた。最初に見かけたのは、パリ第3大学の映画の授業だったと思う。当時はフランス語はあまりうまくなかったが、「英語で話してもいいですか」と言って、流暢な英語で質問してフランス人を驚かせた。

翌年に私が初めて行ったカンヌでは、彼女は何とレッドカーペットを歩いた。パリに来る前に、カンヌのコンペに出た映画MISHIMA(『ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ』としてDVDのみ発売)の撮影の通訳をしていたという。私には、カンヌの彼女はほとんど「セレブ」(この日本語は当時はなかったが)に見えた。

私は1年でパリを去ったが、彼女は数年いて、ちゃんと修士号を取ったはず。それから夫の就職が決まって、静岡に住んだ。その頃に連絡があって、「静岡で映画祭を立ち上げる企画があるから手伝って欲しい」と言われた。私は山形のドキュメンタリー映画祭を見るべきだと言うと、彼女は現れた。

私が少しずつ映画のプレス向け試写会に行きだすと、彼女に出くわした。静岡新聞に書くために、新幹線の日帰りで来ていると聞いた。なんという情熱かと思った。

それからまた何年か経ち、私が東大で非常勤講師をしていた時に、突然教室に現れた。夫の勤務先が東京に変わったので、東大の博士課程に通っているとのこと。何度か授業の後に昼食をした。

それからまた数年後、どさりと厚い本が送られてきた。東大で博士号を取り、その論文が『ジェンダーの比較映画史』という本になった。それから、銀座の試写室でも1年に1度くらいは会って、言葉を交わした。あちこちの大学で非常勤講師をしていると聞いた。

ある時、新橋駅で彼女が駅員相手に大声を挙げているのを見た。「またもめてますねえ」とからかうと、彼女は真っ赤になって、「聞いてよ、JRはひどいのよ」と言った。

私が大学に転職する案内を送ったら「男の子はいいなあ」とメールが来た。それから彼女が映画評論集を出すというので、私がカンヌで撮った写真がないかと聞いてきた。彼女がカンヌの浜辺にいる写真が『映画のように暮らしたい』という本に使われた。

それから彼女が書いていたサイトに私の学生の映画評を載せたいと頼まれたこともあった。1年ほど3人の女子の映画評を月に1本ずつ送っていたが、文章を直す私の手間が多くて続かなかった。

お葬式に行ってわかったが、私よりも5つも上だった。1つか2つ上だと思っていた。いずれにしても、近い年齢の知り合いが亡くなったのは初めて。これからは、いつ何があってもおかしくない。

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