« 『幸福なラザロ』に震える | トップページ | 中国映画『芳華』に考える »

2019年3月 5日 (火)

40年ぶりの『眼球譚』

早いもので、もう母の四十九日。なぜか福岡に行く飛行機に携えていたのが、ジュルジュ・バタイユの『マダム・エドワルダ/目玉の話』。法事の日にこんな本を読むとは、とんだ罰当たりの息子である。

もちろん40年前に読んだ、生田耕作訳で金子國義の表紙とイラストがあるやつではない。あれは『目玉の話』ではなく、『眼球譚』だった。今回読んだのは、近くの名書店「カモメブックス」で見つけた、中条省平さんの新訳版。超訳で有名な光文社文庫だ。

かつて生田耕作訳の角川文庫を読んだのは大学に入ったばかりで、その内容に驚愕した。『眼球譚』の冒頭でシモーヌが牛乳を入れた皿にお尻をつけるシーンからやられてしまった。ジョルジュ・バタイユという名前は同じ角川文庫の澁澤龍彦訳のマルキ・ド・サドと共に、私の中に深く刻み込まれた。それらの本は私がフランス文学を専攻するきっかけにもなった。

それから40年がたち、バタイユはおろか、フランス文学さえ遙か遠くに行ってしまった。ところが今年からある大学で「フランス映画論」なる講義をやることになり、少し「おふらんす」を復活させようと思った次第。

さて、中条さんの訳はわかりやすい。題名からして『眼球譚』は文学的、哲学的でかっこいいが、原題はL'histoire de oeilなので、普通に考えたら「目の話」である。中条さんはなぜそれを「目玉の話」にしたのかは、「訳者あとがき」に書かれている。

「この小説は、眼球と卵と睾丸という三つのオブジェが、楕円的球体という形態上の類似と、音韻上の類似を介して結びつく無意識の連想のドラマだ」。この3つは仏語で「ウユ」「ウフ」「クユ」と似た音になる。「あえて「目玉」「玉子」「金玉」という訳語を与えることで、この三つの言葉の音韻的共通性を保持することとした」

学習院大学で教える中条さんが「金玉」とはいかがなものか、と言いたくなるが、「クユ」は「フランス語でも人前で発することをはばかれる俗語である」そうだ。私はこの単語は知らなかった。

確かに有名な闘牛場のシーンはこの訳語が生きる。「私」とシモーヌとエドモンド卿はスペインで闘牛を見ているが、「最初の牡牛の金玉が欲しい」というシモーヌの希望でエドモンド卿は殺された牛の金玉を、シモーヌの目の前の皿に並べる。シモーヌがそれを尻に入れた瞬間に、闘牛士グラネロは牛に襲われて、死体から右の目玉が垂れる。

「同じ大きさ、同じ硬さの二個の球体は、同時に起こった相反する動きに命を吹き込まれたようでした。牡牛の白い睾丸は「ピンクで黒い肉」のなかに入りこみ、目玉は若者の頭部から外へ出たのです。この偶然の一致は死と結びつくとともに、いわば尿のように溶けている空模様とも結びついて、私にマルセルを思いおこさせました」

やはり、フランス文学はおそるべしである。


|

« 『幸福なラザロ』に震える | トップページ | 中国映画『芳華』に考える »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

超訳で有名な光文社文庫 ???
「新訳」でしょう?

投稿: yazaki | 2019年3月 6日 (水) 16時45分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 40年ぶりの『眼球譚』:

« 『幸福なラザロ』に震える | トップページ | 中国映画『芳華』に考える »