父の話:その(1)
母の話ばかりしているが、父についても少しは書きたい。私の父は30年近く前に亡くなった。まだ働き始めて2、3年の頃で、ちょうど初めて自分が一から企画した「日本のビデオアート 80年代展」の最初の会議の前日に、職場に電話がかかってきたのを覚えている。
まだメールはおろか、携帯電話もない時代だった。とりあえず自宅に帰り、夕方の飛行機で福岡に行った。当時は、あまり悲しいという感じはなかった気がする。全く予測もしていなかった事態で、ひたすらびっくりした。
その後、あまり父の死について考えることがなかった。働き始めてようやく仕事がおもしろくなりかけた頃で、とにかく忙しかったからかも。あるいは、父はもともと私にとって存在感が薄かったのか。
もちろん、私が大学はおろか大学院まで行き、フランスに1年も留学できたのは、父が稼いだおかげだ。それ以前にも、私を中学3年から遮二無二塾に通わせ、私立の進学校に入れた。さらに下宿したいという私の希望を受け入れた。とんでもないゼイタク息子だった。
そのうえ、私は高校2年生の時、肝炎で長期入院した。最初に大学病院に一緒に行き、若い担当医に賄賂を握らせたのも父だった。それから国立病院、市立病院とおよそ2年近く病院への入退院を繰り返してお金を使った。
ここに何度か書いた通り、大学でも一切バイトをしなかった。買いたいだけ本を買い、好きなだけ映画や芝居を見て、コンサートに行った。今私が教えていられるのも、その時の蓄積によるものが大きいと、今になって思う。
それでも、父との会話はほとんどなかった。私は入試の時に大学で文学部を選んだが、それについて誰かに相談した記憶はない。その後フランス文学科を選んだのも、早稲田の大学院で映画を専攻したのも、父は知っていただろうか。
その代わりに、国際交流基金に就職すると言ったら、喜んだ。「外務省の管轄で文化交流の専門機関」と説明したが、父は「そりゃ、大事か仕事ばい」と言った。朝日新聞社に移った時にはもう亡くなっていたが、大学の教授になったと言ったら、さぞ喜んだだろう。実はそう言ったのは母だった。「絶対、喜ばしたばい」。母はさほどでもなさそうだった。
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