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2019年4月14日 (日)

クリス・マルケルの『不思議なクミコ』をめぐって:その(1)

クリス・マルケルの『不思議なクミコ』(1965)について、昨日映画館のトークで話したこと、時間の関係で話しそこねたことを忘れないうちにまとめておきたい。この作品は『A.K.』(1985)と共に、マルケルが日本で撮った映画としては『サン・ソレイユ』(82)や『レベル5』(1996)に比べると、ずいぶんわかりやすいように見える。

ところがよく見ると、マルケルらしいメディア論的な志向があちこちに見える。まず冒頭に出てくるのはフランスの漫画『フヌイヤール一家』であり、次にクレジットが出てくる。重要なのはこれらがテレビ画面に映ったものが撮られている(走査線が見える)こと。

つまり、映画の初めに漫画とクレジットをテレビ画面で見せて、映画をあえてテレビと対峙させている。これは20年後の『A.K.』の冒頭で、手前にウォークマン、奥にニュースを写すテレビが出てくるのと呼応する、映像メディア論的な志向である。

『不思議なクミコ』では、男性の仏語の質問に対してクミコが答えるが、質問者の姿は見えない。男性のナレーションについては、時おり日本語訳が小さく聞こえる。後半にはクミコは、文字で書かれた質問に対して答えるが、写るのは彼女が話す姿ではなく、たたずんでいる映像や時には彼女の白黒の写真も混じる。

『A.K.』には、戦、忍、義、速、馬、雨、霧、乱といった毛書の漢字が、英仏の訳語と共に黒い画面に白抜きで出てくる。映画の内容と関係があるようでないこれらの文字は、エキゾチズムよりも音声ではなく文字を見せる異化効果をねらったものだろう。

『A.K.』では黒澤の過去の作品が、あえて赤をバックにしたテレビモニターに写る。あるいは別途録音された黒澤の声が、撮影風景にかぶせられる。『不思議なクミコ』では、当時のフランスのニュース映像が見せられ、『A.K.』では関東大震災のアーカイブ映像まで出てくる。

つまりは映画はテレビ、漫画、写真、ニュース映像と混じり合い、言葉は話す人物を超えて宙に舞う。そこに書かれた文字も重なる。見ればわかることだが、2014年に出た唯一のマルケル本『クリス・マルケル 遊動と闘争のシネアスト』にはこのことはほとんど書かれていないので、そんな話をしようとトークを準備していた。

ふと友人のステファン・ドゥ・メニルド氏が仏『カイエ・デュ・シネマ』誌のために「クミコ」さんにインタビューしたと言っていたことを思い出して連絡してみた。彼女は認知症でパリ郊外の施設にいるが、それはアンナ・デュボスクという実の娘が書いた『Koumiko』という小説が原因だと言う。慌ててその小説をアマゾンで金曜に注文すると、月曜朝には届いた。この続きは後日(必ず)書く。

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