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2019年4月23日 (火)

25年ぶりの歌舞伎:続き

25年ぶりに見た歌舞伎の演目は「実盛物語」「黒塚」「二人夕霧」。歌舞伎は「通し狂言」といって、1作品を通しでやることもあるが、普通はこうした名場面集が多い。猿之助が壮絶な踊りを見せる「黒塚」、おおらかな上方和事の「二人夕霧」に比べると、「実盛物語」は、素人には見ていて一番難しいというか、コンテクストが多すぎた。

まず「実盛物語」は、百姓の九郎助が孫の太郎吉と拾ってきた片腕を妻に見せるところから始まる。その腕はしっかりと白い棒を掴んでおり、太郎吉が指をはがすと、源氏の白旗が出てくる。

百姓の老夫妻は妊娠中の葵御前をかくまっているが、そこに平家の実盛(仁左衛門)と瀬尾が現れて、葵御前を出せと言う。彼らは葵御前が生む子供を殺そうとしているが、機転を利かせた九郎助は赤ん坊の代わりに例の片腕を見せる。

実はその片腕は太郎吉の母の小万のもので、源氏の旗を手放さないために平家の軍勢に殺されそうになったのを、実盛が腕ごと切り落としたものであった。実盛は平家の横暴に嫌気が差して、心情的に源氏の味方をしていた。実盛は小万の最期を語る。さらにあろうことか、手を切り落とされた小万の体が見つかって、一瞬の間生き返る。

いったん退いていた瀬尾が現れて、小万の死体をいたぶって、息子の太郎吉に自分を刺させる。瀬尾は死ぬ間際に、実は小万は自分の娘だったので太郎吉は息子だと白状し、自分を殺した太郎吉を葵御前が生んだ跡継ぎの子分にしてくれと頼んで死ぬ。

実は歌舞伎座に行く前に、3本のあらすじはネットなどで十分に読んでいた。それでもなぜ実盛が小万の片腕を切り落としたのか、なぜ瀬尾の娘が小万なのか、いやはやわからない。そもそも旗を握って放さない片腕の意味というか象徴性が、ピンと来ない。

たぶんこれは「平家物語」を十分に読み込んでいないといけないのだろう。葵御前の死んだ夫が木曽義賢で、妻を九郎助に旗を小万に托したとか、葵御前の子供は木曽義仲になるとか、後で歌舞伎座のHPの「源平布引滝~義賢最期・実盛物語」を細かく読んでわかったが、前と後がないので難しい。

かつての観客は「平家物語」を覚えていたのだろうか。あるいは今の観客はこの通し狂言を見ているから、部分だけを見てもおもしろいのか。

それに比べたら、「黒塚」は三幕でそれぞれ舞台が開くと、ススキの野と月明かりに目を奪われる。そこに猿之助の驚異的な語りと踊りが来るので、有無を言わさない。

映画もそうだが、たまに1本を見てもわかるものではない。

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