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2019年5月18日 (土)

またガレルを見る

先日フィリップ・ガレル監督の『ギターはもう聞こえない』(1991)を見たが、もう1本の『救いの接吻』(89)もなぜか日に日に見たくなってとうとう最終日に見に行った。こちらは白黒だし、ガレル本人が監督を演じ、妻も息子も父親もそのままの役で出てくると聞いて、これはやめようかと思っていたのだが。

『ギターはもう聞こえない』が監督の私生活をテーマにしながらも、時の流れを軸にしたある種の抽象化がその高みに達しているのに比べると、『救いの接吻』は本物の私小説というか、日常のスケッチに近い。

冒頭、妻のジャンヌ(実の妻のブリジット・シィ)は監督の夫マチュー(ガレル)になぜ次回作の自分の役をほかの女優が演じるのか問い詰める。マチューはぶつぶつと小さな声で弁解するだけ。次にジャンヌは役をもらったミヌシェット(アネモーヌ)に役を降りるよう、頼みに行く。当惑するミヌシェットはとうとう降りる。

ある時マチューがアパートに帰ると、ジャンヌは別の男と息子(実の息子のルイ・ガレル)とベッドにいた。マチューは父(実父のモーリス・ガレル)に相談するが、ホテルに住み始める。マチューはそれでもジャンヌと息子を連れて田舎の母(たぶん実母)に会いに行く。

マチューはジャンヌを連れてもう一組のカップルとジャック・ロジエの『メーヌ・オセアン』を見に行き、上映後カフェで議論する。ある日ジャンヌは地下鉄のヴァノー駅の反対側にミヌシェットを見る。

マチューはいつもくたびれた同じ背広を着て、よれよれのシャツにセーター姿。長髪で難しい顔をして小さな声で話しながら生きている。読む本はモラヴィアの『夫婦の愛』。「ユマニテ」紙のヌーヴェルヴァーグ特集を読むシーンもある。

音はあえて周囲の音から選択して大事な物音だけを聞かせる。白黒ということもあって、まるで能を見ているかのような、澄んだ時間が流れてゆく。ある時代のある生き方が確実にそこに刻印されているが、今の自分からはあまりにも遠い。

ミヌシェットを演じたアネモーヌが懐かしかった。この4月末に亡くなったニュースが流れたが、日本の新聞にはたぶん載っていない。80年代から90年代はそれなりに有名だったと思うが。ガレルの映画も含めて、1980年代のことをしばらく考えている。1960年代後半の学生運動に憧れながらも距離を取り、バブルに近づく感じも嫌だった日々。

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