« この気持ちよさのウラには | トップページ | 『ペトラは静かに対峙する』の迷宮世界 »

2019年5月28日 (火)

『美と破壊の女王 京マチ子』を読む

北村匡平著『美と破壊の女王 京マチ子』を読んだ。この筆者は2年前に『スター女優の社会学』を読んで驚嘆したが、もう新たな本を書くとは若いのに偉い、というのが読む前のおじさんの印象。

もともと監督論に比べると俳優論は難しい。卒論でも俳優を取り上げる学生は時々いるが、なかなかうまくいかない。監督によって、作品によって大きな振幅があるから。原節子や高峰秀子や若尾文子ならばまだいい。小津安二郎や木下恵介や増村保造の名作を中心に論じることができる。

ところが少なくとも個人的には、京マチ子は一番難しい気がしていた。フランスでは確実に一番知られた女優だけど、私にとっては『羅生門』は相変わらずよくわからないし、『地獄門』に至っては永遠の謎である。『雨月物語』はどこか大げさで、溝口健二のなかでは好きな方ではない。

北村匡平氏の本を読んで思ったのは、まず傑作も駄作もよく見ているということ。多くのDVDが発売されているからだろうが、一昔前までは同時代に生きていなければ、こんな本は書けなかった。そのうえ、当時の新聞、雑誌(ファン雑誌まで)からマスコミ向けプレスシートまでよく目を通している。映画によっては脚本の第一稿と比較さえしている。

この本には、木村圭吾監督『牝犬』(1951)の詳細な分析がある。通常は映画史に出てこない作品で私も見ていない。「映画としては職人監督が撮った娯楽映画の一つでしかないだろう。ただ、バタくさい京マチ子が、その肢体を最大限に活かしてスクリーンに投影する女優としてのスケールの大きさは、ほかの映画ではめったに見られないインパクトがある」

つまり、いい作品かどうかではなく、観客へのインパクトが尺度である。この本は京マチ子が戦後の日本社会に与えたイメージをたどっている本だから。

「画面を突き抜けていくような彼女の「スケール」や「ヴォリューム」感は、敗戦後の「自由」や「民主主義」という新しい政治的イデオロギーを体現し、戦時体制によって思想も行動も国家にがんじがらめに抑圧された時代からの「解放」という新たな時代の息吹と、分ち難く結びついていたのである」

この本は「千変万化する映画女優」としての京マチ子を、初期=肉体派ヴァンプ女優、中期=国際派グランプリ女優、後期=演技派カメレオン女優、晩期=映画・テレビ・舞台女優と分けて、そのイメージの変遷を詳細に追う。

「京マチ子という映画女優のスクリーン・イメージには、極上の美と破壊性が共存していたのである」

若い研究者からこういう俳優論がもっと出てくるといいと思う。

|

« この気持ちよさのウラには | トップページ | 『ペトラは静かに対峙する』の迷宮世界 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

映画」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« この気持ちよさのウラには | トップページ | 『ペトラは静かに対峙する』の迷宮世界 »