なぜ新聞小説を読むのか
新聞社には16年半も務めたのに、新聞の連載小説を読んだことはなかった。友人の記者が柳美里の連載『8月の果て』で苦しんでいた時も、関心がなかった。そんなものは単行本になって読んだ方が効率がいい、毎日読むなんて暇な人のすることだ、と考えていた。それなのに最近は「朝日」の連載小説を毎日読んでいる。
そのきっかけは2015年春から連載された沢木耕太郎の『春に散る』。70歳を過ぎた元ボクサーたちが再開するクサい話なのに、夢中になった。その年の夏にベネチア国際映画祭に行く時に読めないのが悔しくて、ネット会員になった。連載は翌年3月にパリに行って半年過ごした時も続いていた。
パリでは朝起きるとコーヒーを入れて、果物やパンを食べながら、パソコンで朝日新聞を紙面イメージで読んでいた。見出しが気になると拡大して全文を読んだが、『春に散る』は毎朝読んだ。カンヌやボローニャやロカルノに行っても。8月末に終わった時は、それからあと1ヵ月パリでどうしようかと思ったくらい。もちろん帰国して単行本を買った。
それから吉田修一の『国宝』も読んだ。こちらは『春に散る』ほど熱狂しなかったが、やはり人間の老いを描いていておもしろかった。今は重松清の『ひこばえ』だが、毎朝読んでいる。これまた「老い」の話。
最近はそれ以外の小説も読み始めた。朝井リョウの『スター』は毎週金曜日の夕刊に1ページ載るが、映画監督を目指す若者2人の話なので読んでいる。なかなかいい感じ。ついでに土曜朝刊1ページの桜庭一樹の『火の鳥』も読み始めた。この小説家にはあまり興味がわかないが、戦前の上海の話はおもしろい。
ほかの外部筆者のエッセーの連載も「てんでんこ」も何でも読んでいる。要はヒマなのだろう。朝、コーヒーを飲みながら、新聞をめくるほどの快楽はほかに知らない。休刊日は手が震えそうなくらい。
ところで、大学生は新聞を読まない。一人暮らしはほぼ誰も取っていないし、自宅から通う学生も私と同世代か少し下の両親が新聞を取っていない場合が多い。ニュースはネットとテレビのみ。だから私が彼らと話が通じないのは当たり前。
今年の1月の数字で、私が新聞社勤務の頃1000万部の「読売」は828万部、かつて800万部の「朝日」は何と566万部。新聞全体では毎年200万部以上減っているらしい。私は新聞がなくなるまで、読み続けようと思っている。『古くさいぞ私は』とはかなり前の坪内祐三氏のエッセーの題名だが、そんな気分。
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