« ギョーム・ブラックの描く夏の日 | トップページ | 展覧会をめぐる本:その(2) »

2019年5月16日 (木)

クリス・マルケルの『不思議なクミコ』をめぐって:その(3)

クリス・マルケルについてもう一度だけ。昔、彼にインタビューしようとしたことがあった。1997年の夏から秋にかけて東京都現代美術館で開催された「ポンピドー・コレクション」展の「朝日」の担当だった私は、準備のために学芸員や新聞記者を連れてGW頃にパリに行った。

この展覧会はポンピドゥー・センターが改修のために閉館になった時に、マティスやピカソなどの有名作品をごっそり日本に借りてくるというものだったが、127点目の一番最後の作品がマルケルの《ザッピング・ゾーン》だった。そこでインタビューを思いついた。

マルケルはインタビュー嫌いで有名だ。ポンピドー・センターを介しての私のインタビュー依頼に対しての、4月16日の断りのファックスが手元に残っている。

「私は数年前からインタビューを受けないことにしています。それが誰も傷つけない唯一の方法です。インタビューの相手を選ぶとなると、選ばれなかった人は不愉快ですし、全員のインタビューに応じると気が遠くなるような時間のムダになります。ムッシュー・コガはこの態度を理解するだけの「ゼン」の精神がおありであると信じます。私に割くはずだった時間を使って、この4月のパリを散歩してください。インタビューを断った私に感謝したくなるにちがいありません」

今回トークのために調べていたら、「朝日」の1983513日付夕刊に無記名のインタビューがあった。 『サン・ソレイユ』の公開の頃で、「大のインタビュー嫌いで、近年は本国のマスコミにも、まれにしか登場しないが、試写の合間をぬって短時間のインタビューに応じた」

「画家がスケッチをするようにね、16㎜カメラを操る」「カメラは私の視線みたいなものだよ」「確かに素材は現実のスケッチだが、ドキュメントではない」。写真を「寿命が縮まるから」と許可せず、記事にはふだん政治家のカリカチュアを書く画家のデッサンが載っていた。インタビューした記者の名前はないが、秋山登氏か黛哲郎氏か。

フランスの「カイエ・デュ・シネマ」誌は2012年9月号にステファヌ・ドゥ・メスニルドによる村岡久美子氏のインタビューを載せている。7月にマルケルが亡くなった追悼特集だが、彼女はマルケルの葬儀にも行ったようだ。以下はインタビューの抜粋翻訳。

「これは1964年の東京オリンピックの頃でした。私は有楽町のユニフランス東京のオフィスでバイトをしていました。東京日仏学院で仏語を学んでいたからでしょう。その日、フランス人がやってきて、支局長(マルセル・ジュグラリス)は東京を案内するよう私に頼みました。それがクリス・マルケルで、最初の東京訪問でした。オリンピックは彼にとっては口実で、それより傘を持った人々や猫を撮っていました」

「私はフィルムが回っていて自分が主人公になるとは思いもしませんでした。散歩して話し、撮影する。まるで思い出を撮るようにあまりにも自然でした」

「私は満州のハルピンで10歳まで過ごしたので、その根無し草の感じが好かれたのだと思います」

「クリスは出発前に私に質問を残しました。私は答えを日本語で書いた後に仏語に訳しました。私は自分の声をエレベーターの中で録音しました。それが唯一の静かな場所だったからです。質問のいくつかは詩的でしたが、非常に具体的でした」

1966年に私はフランスに住むことにしました。クリスは親切でした。私が着いた時はパリにいませんでしたが、コンタクト先の住所を残していました。中にはアラン・レネの名前もありました」

村岡久美子さんの娘が書いた「クミコ」については、いつか紹介したい。

|

« ギョーム・ブラックの描く夏の日 | トップページ | 展覧会をめぐる本:その(2) »

映画」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« ギョーム・ブラックの描く夏の日 | トップページ | 展覧会をめぐる本:その(2) »