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2019年6月17日 (月)

パリの吉武さんが亡くなった

パリに住む映画プロデューサーの吉武美知子さんが14日(金)に亡くなったという。去年の寺尾次郎さんに続き、フランス関係の映画人で尊敬する人がまたいなくなった。二人ともまだ60代前半のはず。最初に会ったのは、84年から85年にかけてパリに留学していた頃。

一番最初はたぶん石井聰互監督がパリに来た時ではないか。当時、吉武さんはパリでATGの代表を務めていた。ベルリンに『逆噴射家族』を出したばかりの石井監督の世話をしていた。その後にカンヌ国際映画祭で伊丹十三監督の『お葬式』を担当していた姿は本当にカッコよかった。学生の私は「ああなりたい」と思った。

だから就職した後も、パリに行くたびに食事を共にした。あるいは毎夏彼女が帰国すると会った。多い時は年に3、4回も食事をしていたと思う。彼女は長年ポンピドゥー・センターのすぐそばに住んでいたが、ある時20区にアパートを購入して引っ越した。

お金があるうちにアパートの頭金を払えば、あとは家賃以下のローンで済むという話だった。あまり料理をしない人だったが、一度だけその新宅に伺って夕食をご馳走になった。当時はユーロスペースのパリ代表をしていて、パリに行くとよく「この映画買う予定だけど、感想教えて」と見るべき映画を教えてくれた。

1996年の映画祭「ジャン・ルノワール、映画のすべて。」を始めとして、いくつかの企画でコーディネートをお願いした。当時日本の映画関係者の多くは、フランス案件を吉武さんに任せていたのではないか。

いつ頃からか、同じくパリに住む澤田正道さんと組んでコム・デ・シネマという会社を作り、映画製作に乗り出した。本格的にやりだしたのは、そこから分かれて自分の映画会社を作ってからだと思う。

黒沢清監督の『ダゲレオタイプの女』や諏訪敦彦監督の『ライオンは今夜死ぬ』など日本の監督がフランスで撮る映画を製作したが、なぜかカンヌやベネチアには出品されなかった。少なくともカンヌは、日本の監督は日本で撮って欲しいようだった。

寺尾次郎さんがフランスから勲章をもらった時は、「あんなに反体制だったくせに」と反発した。私がもらった時も、微妙な感じだった。さらに大学に移ったことを喜ばなかった。「もっと映画のために朝日の立場でできることはあったのに。みんな大学に行って」と言われた。

そのせいか、この10年はあまり会っていない。最後に会ったのは2016年の6月だが、カンヌに落ちた『ダゲレオタイプの女』の話はとうとうできなかった。ガンで闘病中だったが、映画の仕事を続けるためにほとんど周囲に知らせていなかったらしい。それが彼女らしい。

80年頃パリに行ったのは、お姉さんがいたからで映画は関係なかったと聞いた。少なくともパリに行ってからは映画に捧げた人生だった。個人として映画の日仏交流にこれほど尽した人を私は知らない。葬儀は20日(木)10時からペール・ラシェーズ墓地で。

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コメント

古賀さんのブログで、吉武さんのことを知りました。まるで知らなかったし、まったく信じられない。こんなことがあるなんて…。どことなく非現実的な『鹿柴』の風景にでも迷い込んだような寂寞無為の心境です。「返景入深林 復照青苔上」。言葉のない悔恨だけがめぐり、あの旅次、あの食事を思い出し…惟合掌のみ。

投稿: 岡島尚志 | 2019年6月17日 (月) 11時40分

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