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2019年6月20日 (木)

それでもラース・フォン・トリヤーは見る価値がある

ラース・フォン・トリヤーの新作『ハウス・ジャック・ビルト』を劇場で見た。連続殺人鬼を描いて去年のカンヌでブーイングを浴びたというので、興味が沸いた。見始めてしばらくは、今度は本当に中身がないかもと思った。

マット・ディロン演じるジャックが赤い車で山の中を進む。車が故障して困っていた女性(ユマ・サーマン)を乗せているうちに、彼女が嫌になって殺害する。それから始まって、家にいる中年女性、子供2人を連れてジャックとピクニックに来た女、グラマーな若い恋人などを次々に殺してゆく。その殺し方があまりに残忍で嫌になる。

ジャックには、いつも語りかける男の声がある。彼を非難するわけではなく、むしろ寄り添う感じで、2人で話している。それがブルーノ・ガンツの声だとしばらくしてわかった。そして殺人の合間にグレン・グールドのコンサートの映像や、湖畔の土地に自分で作った模型の通り家を建てているシーンや数々の絵画が挟み込まれる。

どうも殺人鬼のジャックは自分を建築家だと思っており、芸術家気取りだというのはわかってくる。彼の殺し方や死体の保存方法にもある種の美学があるようだ。それにしても。

終盤になってブルーノ・ガンツが神父のような黒服で現れ、ジャックはいつの間にか真っ赤なフード付きのコートを着る。2人は地獄を歩き出し、ジャックは何とか地獄から逃れようする。その映像の美しさはただ事ではなく、ここに来てダンテの『神曲』だったのかと思い至る。

見ているときは不快だし、グールドをはじめとしたさまざまな音楽やアートを使うのが単なるスノブにしか思えなかった。ところが『神曲』のシーンを見終わると、確かにある造形的な美しさがあちこちにあったなとは思う。

私の中では『アンチクライト』(09)や『メランコリア』(11)までは、まだその世界観自体と結びついた映像美を楽しむことができた。ところが『ニンフォマニアック』(13)に至ってセンセーショナリズムが前面に出て思想性がどこかに行ってしまった。今回もそんな感じだが、それでもなぜか見る価値はある気がした。

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